UNESCO世界報告書(2023):ICT教育に警鐘

国連機関 UNESCO世界報告書(2023):ICT教育に警鐘「適切な使用を」

2023年7月26日,国連機関であるUNESCOが
世界教育モニタリング報告書2023「教育におけるテクノロジー:誰の条件に応じたツール?」(GLOBAL EDUCATION MONITORING REPORT 2023 Technology in education:A TOOL ON WHOSE TERMS?)を発表しました。内容は,教育現場におけるICT機器使用の実態をふまえ,テクノロジーの適切な使用を呼びかけるものです。
大阪教文センターでは,いち早くこのレポートの概要を把握してきましたが,その内容を多くの方々に知ってもらうべく,日本語訳(Google翻訳)を当WEBに掲載するものです。

【参考WEB】
UNESCO プレスリリース「ユネスコは教育における
テクノロジーの適切な利用を緊急に求める」(2023.7.17)
※英語が出てくる場合,右クリックで「日本語に翻訳」を選択
UNESCO「学校にスマートフォン?」

■キーメッセージと■全テキスト(概要と全文)【画像をクリック】

キーメッセージと提言
(Key Message and
Recommendations)

全テキスト【日本語訳】

■大阪教育文化センターより解説■

【関連リンク】
GigaziNE『ユネスコが「学校での電子機器やオンラインコンテンツの使用はもっと適切に検討されるべき」と呼びかけるレポートを発表』(2023.07.27)

平野裕二「ユネスコが学校でのスマホを全世界で禁止するよう呼びかけ?――報告書ではどう書かれているか」(2023.7.31 note)
【参考】
過去の「ユネスコ グローバル エデュケーション モニタリング レポート」
■インクルージョンと教育 2020
■教育における非政府アクター 2021/2
上記のレポートは
広島大学教育開発国際協力研究センターが日本語訳しています。

■UNESCO「教育研究における生成AIに関するガイダンス」(2023)■
(UNESCO:Guidance for generative AI in education and research)
■原版UNESCO(英語)■(左よりダウンロード可)

■日本語訳(Google翻訳)■(左をクリック)

【概要】ユネスコが2023年9月7日に発表した「生成AIに関する世界初のガイダンス」では、AIを教室で使用する際の最低年齢を13歳に制限すること、データ保護とプライバシー基準の採用、具体的な教員研修の実施などが提言されている。
生成AIシステムが急速に台頭するなか、当機構は、教育における生成AIの利用において人間中心のアプローチを確保するため、学校での利用を規制するよう各国政府に求めている。

  

学校再開に向けたとりくみ 2020提言集

2020年の提言をまとめました

今だからこそ「提言」の読み直しを!
〜画像をクリック〜

【提言】未だかつてない事態には未だかつてないとりくみを(20.4.27)
〜子どもたちにとって大事なことを絞り込んで教育内容の大胆な削減を〜
【授業時数】ちょっと待った!授業時数は足りている(20.7.8)
【追加提言2】「オンライン授業」について(20.5.18)
【追加提言1】休校中の登校日の対応と学習課題について(20.5.13)
【追加提言3】小学6年 中学3年の教育課程について(20.5.26)
学校再開への4つの提言 要約と補足(20.6.9)

 

  

「こども家庭庁」の危険なねらい

「こども家庭庁」の危険なねらい
―「こども政策の推進に係る有識者会議報告書」から見えてくる重大な問題点―

2021年12月22日
大阪教育文化センター事務局次長 山口 隆

はじめに

2021年11月29日、「こども政策の推進に係る有識者会議」は、「報告書」をまとめ、清家篤座長は、岸田総理大臣に提出しました。この報告書は、2023年度に設立するとされている「こども家庭庁」の方向性を示すものです。この「報告書」に対して現時点では、批判的な報道はほとんどなされていませんが、以下に述べるように、「GIGAスクール構想」やデジタル庁による国民監視・支配の一環として、重大な問題を持つものと考えます。
以下、いくつか問題提起します。

1.「子どもの権利」などをちりばめてはいるが

「報告書」は、政府関係文書には珍しく「こどもの視点、子育て当事者の視点に立った」などという文言を使用し、「子どもの権利条約(「報告書」文中では「児童の権利に関する条約」)に則り」という文言や、子どもの権利条約第3条1項が規定する「子どもの最善の利益」という文言、第12条が規定する「子どもの意見表明」や「意見反映」という文言をあらゆるところにちりばめています。

上記に加え「こどもが、個人としての尊厳を守られ」という文言なども使用されていることから、一見、まじめに子どもの権利を尊重する立場で検討し、書かれているかのように見えますが、以下に述べる問題を見ると、その本質は子どもの人権を侵害し、家庭教育に対する大がかりな介入をおこなおうとするものであり、きわめて危険で重大な問題を持つものといわなければなりません。

「報告書」で使用されている「子どもの権利条約」や「子どもの権利」「子どもの最善の利益」などのいわば「目くらまし」を取り除けば危険な本質が浮き彫りになってきます。以下、とりわけ重大であると思われる問題をいくつか指摘します。

2.危険な「アウトリーチ型支援」「プッシュ型支援」

「報告書」は、「待ちの支援から、予防的な関わりを強化」するとして「必要なこども・家庭に支援が確実に届くようプッシュ型支援、アウトリーチ型支援に転換」と述べ、いたるところに「プッシュ型支援」「アウトリーチ型支援」という文言が使われています。

一見、積極的支援の方向性が示されているかのように見えますが、たとえば「児童虐待防止対策の更なる強化」の項目でも「ハイリスク家庭へのアウトリーチ支援の充実」と述べられていますが、どの家庭が「ハイリスク家庭」であると誰が判断するのか、という大きな問題があります。この家庭が「ハイリスク家庭」であると判断するには、その基準が必要です。そのために「報告書」は「個々のこどもや家庭の状況や支援内容等に関する教育・保健・福祉などの情報を分野横断的に把握できるデータベースを構築」とのべています。つまり、各家庭の経済状況をはじめとする個人情報をあらかじめ収集し、これを蓄積してデータベースをつくり、そのデータをもとにして「アウトリーチ型支援」をおこなうということです。

となれば、実際に児童虐待の実態がなかったとしても、収集された各種データから、おそらくAIが「児童虐待のおそれがある」と判断した場合に、「アウトリーチ型支援」をおこなうということになります。

これは大変危険なことです。つまり、児童虐待の事実がなかったとしても、その家庭に児童虐待があったはずだと判断して「アウトリーチ型支援」をおこなうということは、「支援」どころか、家庭への介入そのものであり、重大なプライバシー侵害を引き起こすことになります。

「報告書」では、こうしたやり方を、児童虐待のみならず、「社会的養護経験者や困難な状況に置かれた若者の自立支援」についても、「ひとり親家庭への支援」についてもおこなうとされており、家庭に対する様々な問題についての介入がおこなわれるおそれがあり、危険極まりないものといわなければなりません。

3.子どもだけではなく家庭のデータも蓄積・収集・「利活用」

上記したように「報告書」では、「こども・家庭支援のためのデータベースの構築」が打ち出されています。そこでは「地方自治体において、個々の子どもや家庭の状況や支援内容に関する教育・保健・福祉などの情報を分野横断的に把握できるデータベースを構築し、情報を分析し」と述べ、子どもだけではなく、家庭の状況についてもデータ収集することが述べられています。「報告書」では「支援」とされている対象が「子どもの貧困」なども含まれ、「保護者の就労支援」や「経済的支援」などについても言及されていることから考えると、家庭の収入や預貯金の額、公共料金の滞納の有無などについてもデータ収集することが予定されていると考えられます。

これは、デリケートな個人情報についても蓄積され、収集され、「利活用」されることを意味しており、断じておこなってはならないことです。

さらに「報告書」は、「データ・統計を活用したエビデンスに基づく政策立案と実践、評価」を打ち出しています。その中で、「行政のデジタル化を進め、各種統計におけるこどもに関するデータや…こどもの健康や学力等に関する情報のデータベースの構築・活用などを更に充実させることが求められる」と述べています。これは「GIGAスクール構想」と一体にデータ蓄積と利活用をすすめようとするものであり、重大な問題を持つものです。

4.「GIGAスクール構想」も組み込んで

上記したように、「報告書」の打ち出す方向は、「GIGAスクール構想」と一体です。「報告書」は、「全てのこどもたちの可能性を引き出す学校教育の充実」という項目を置き、そのなかで、中教審答申同様に「個別最適な学びと協働的な学びを一体的に充実し」として、「GIGAスクール構想を基盤としたデジタルならではの学び」と述べています。「GIGAスクール構想」のねらいは、すでに教文センターブックレットが明らかにしているように、教育を市場として財界・大企業に開放することと、子どものデータ蓄積と利活用による、行政権力による子ども監視と支配にあります。これと一体の「報告書」の方向は、「こども家庭庁」による子ども支配と家庭支配をねらうものといわなければなりません。

こうしたよこしまなねらいを国民的に明らかにし、国民世論と運動の力でストップをかけ、本当に子ども、国民や父母・保護者が願う支援のあり方について、国民的な討論をふまえ、政策提起していかなければなりません。

おわりに

12月21日の報道によると、岸田内閣は12月21日に「こども家庭庁」の基本方針を閣議決定したとされています。それによると、「こども家庭庁」は総理大臣の直属機関として、各省庁に勧告権を持つなど強い司令塔機能としての役割が盛り込まれ、基本方針には上記の司令塔機能のほか、「こども家庭庁」を2023年度のできるだけ早い時期に設置すること、組織は成育部門、支援部門、企画立案・総合調整部門の3部門で構成されることなどが明記されているということです。

上記の立場に立った批判を強めるとともに、憲法と子どもの権利条約に即した教育政策を求めるともに、憲法と子どもの権利条約を生かした教育活動を前進させなければなりません。

 

  

教員研修の大改悪ねらう中教審まとめ案(更新PDF版)

教員免許更新制廃止と引き換えに、
教員の研修の大改悪をねらう
―中教審「『令和の日本型教育』を担う
新たな教師の学びの実現に向けて」
審議のまとめ(案)へのコメントー

2021年9月15日
大阪教育文化センター 山口 隆

【PDF版はコチラ】

はじめに 

中央教育審議会「『令和の日本型教育』を担う教師の在り方特別部会」は8月23日、「『令和の日本型学校教育』を担う新たな教師の学びの実現に向けて 審議まとめ(案)」(以下「まとめ案」)を発表しました。

「まとめ案」は、教員免許更新制廃止を口実に、あるいはこれと引き換えに、子どもの教育のためという教員の研修の意味とあり方を、国家目的のためと根本的に覆し、教員の研修権を根こそぎ奪い取る重大な問題をもつものであり、「まとめ案」によって教員免許更新制の廃止が方向づけられたということをいささかも評価することはできません。

それどころか、教員の研修について、これまでにない大改悪をおこなおうとするものです。さらに、教員の研修履歴の記録管理と活用によって、GIGAスクール構想と一体に、研修をとおして教員支配を強め、教育を変質させるものであり、教育を国家権力の意のままに動かそうとする大問題を持っていると考えます。

したがって、教員免許更新制の窓をとおして、教員免許更新制が廃止されるのかどうかという角度からのみこの問題を見るのは、大きな誤りであり、問題の本質を見誤ることになりかねません。「まとめ案」を教員の研修はどうあるべきかという視野からとらえなければ、本質はとらえられないと考えます。その視座から、以下、見解を明らかにするものです。

1.そもそも教員の研修とは何か
(1)教員の研修の実施主体は教員自身

教員の研修は、地方公務員法(地公法)ではなく、教育公務員特例法(教特法)によって規定されています。
はじめに念のために、地公法と教特法の関係について確認しておきたいとおもいます。地方公務員法が一般法であるのに対し、地方公務員法の特別法という位置にある法律が、教育公務員特例法です。 教特法は、地方公務員法と国家公務員法をベースにしつつ、教育公務員にのみ適用される特例的事項を定めている法律です。特別法は一般法よりも優先するので、教育公務員特例法は地方公務員法よりも優先します。

教員の研修は、一般行政職員の研修と本質的に異なります。地方公務員法が規定する一般公務員の研修は、実施主体は「任命権者」であり、研修の目的は「勤務能率の発揮及び増進」ですが、これに対して、教育公務員特例法は第21条で教員の研修について、「教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない」と規定しています。

つまり、教特法が規定する教員の研修は、実施主体は「教員」であり、目的は「職責の遂行」=子どもの成長・発達の保障です。
それは、一般行政は、議会の多数決によって決められた政策にもとづいてすすめられるものであり、教育は多数決では決まらない真理・真実にもとづいておこなうものであるという本質的な違いがあるからにほかなりません。

したがって、教員に研修権が保障されていることは、真理・真実の教育をすすめるために、教員が自ら研修を企画、計画し実践する権利と責任を持っているということを意味します。教育行政は、いうまでもなく教員の研修の実施主体ではなく、教員が実施主体としておこなう自主的・自発的研修に要する施設、研修を奨励するための方途などの条件整備をおこなうことがその果たすべき役割です。

(2)教員の研修は教育のいとなみと一体

教育の目的は人格の完成=子どもの成長・発達を助けることです。人間はいうまでもなく自然や社会とのかかわりをとおして、また、自然と社会との諸関係の中で成長・発達する存在です。学校教育の中心となる目的は、子どもたちが、自らがかかわりをもちながら発達していく自然や社会についての基礎的、基本的な認識を身につけさせることにあります。

その基礎的、基本的な知識は、真理・真実にもとづくものでなければなりません。真理・真実は多数決では決まらず、学問の自由の保障のもとに研究され、確かめられてきた人類の英知の成果です。

教育と学問の自由がわかちがたく結びついているのは、教育が真理・真実にもとづいておこなわれなければならないという、そのいとなみの本質に由来します。また、そうした基礎的、基本的な知識は、子どもたちに命令したり強制したりして外から無理やり身に着けさせようとしても身につくものではありません。子どもがみずから理解し、納得しながら身につけていくものです。

子どもが理解、納得するためには、単に子どもたちに知識を伝達すればよいというものではありません。子どもたちは、そうした真理・真実にもとづく自然や社会についての基礎的基本的な知識を自分の中に取り込み、自分の中で組み替えることによって理解していきます。

教育といういとなみは、そういうふうに子どもの内面に働きかけることによって、私たち大人の予測を超えた可能性を持つ新しい世代の実現をめざすという、未来に向けた創造的ないとなみです。これが、教育が負っている国民全体に対する重要な責務です。

(3)教員の研修権は、教育の目的を果たすためにある

この責務を果たすために教員の研修権が保障されています。だから、教員の研修は、教科に対する専門的な知識を身につけ、指導方法を向上させること、子どもたちの人格形成をうながすための共感、理解、人間的なはたらきかけについての見識とその実践をすすめる力を身につけること、憲法と教育の条理に対する理解を深めることなどを中心とした「研究と修養」という幅広いものです。

ILOユネスコ「教員の地位に関する勧告」は第6項で、「教育の仕事は、専門職とみなされるべきである。この職業は厳しい、継続的な研究を経て獲得され、維持される専門的知識および特別な技術を教員に要求する公共的業務の一種である。また責任を持たされた生徒の教育および福祉に対して、個人的および共同の責任感を要求するものである」と述べています。これが国際的基準です。

2.自主的研修を根こそぎ奪い取り、命令研修とする「まとめ案」―重大な憲法違反

「まとめ案」は、「公立学校教師に対する学びの契機と機会の確実な提供(研修受講履歴の記録管理、履歴を活用した受講の奨励の義務づけ)」と述べ、
「①任命権者や服務監督権者・学校管理職等が個々の教師の学びを把握し、教師の研修受講履歴を記録・管理していくこと、
②教師と任命権者や服務監督権者・学校管理職等が、教員育成指標や、研修受講履歴等を手がかりとして、積極的な対話を行うとともに、 任命権者や服務監督権者・学校管理職等が、キャリアアップの段階を適切に踏まえるなど、
教師本人のモチベーションとなるような形で、適切な研修を奨励することが必要である。」と述べています。

また、「任命権者等は当該履歴を記録管理する過程で、特定の教師が任命権者や服務監督権者・学校管理職等の期待する水準の研修を受けているとは到底認められない場合は、服務監督権者又は学校管理職等の職務命令に基づき研修を受講させることが必要となることもありえる。万が一職務命令に従わないような事例が生じた場合は、地方公務員法第 29 条第1項第2号に規定する懲戒処分の要件、『職務上の義務に違反し、又は職務を怠つた場合』に当たり得ることから、事案に応じて、任命権者は適切な人事上又は指導上の措置を講じることが考えられる。」と述べています。

つまり、公立学校教員個々の研修受講履歴を都道府県教育委員会や市町村教育委員会や校長が管理し、その履歴をもとに研修が不十分であると教育行政が判断したものに対しては、実質上の命令である研修奨励をおこない、教員が奨励された研修を受講していない場合は職務命令として研修を命じ、それでも受講しなければ「職務命令違反」として処分するというものです。これはつまるところ、国家権力が教員の研修を支配し、それをとおして教育支配をおこなうことを意味します。

このことの持つ重大な問題は、3点あります。
第1は、任命権者や服務監督権者や学校管理職が教員の研修の内容をチェックして、研修の当否を決めるということです。それは、憲法第23条が規定する学問の自由の侵害であり、「検閲はこれをしてはならない」という憲法第21条の侵害であり、二重の重大な憲法違反です。

第2は、命令研修です。
2016年に教特法が改悪され、文部科学大臣が研修にかかわる「指針」を定めることや任命権者がその指針を参酌して「校長及び教員の資質の向上に関する指標」を定めることにされましたが、それはあくまで「指針」であり「指標」であって、命令研修を予定しているものではありません。
「まとめ案」が、「服務監督権者又は学校管理職等の職務命令に基づき研修を受講させる」と述べていることは、文字通り命令研修であり、教員の研修に真っ向からそむく、教育の条理を踏みにじるやり方です。

第3は、処分まで言及していることです。
「まとめ案」が「万が一職務命令に従わないような事例が生じた場合は、地方公務員法第 29 条第1項第2号に規定する懲戒処分の要件、『職務上の義務に違反し、又は職務を怠つた場合』に当たり得ることから、事案に応じて、任命権者は適切な人事上又は指導上の措置を講じることが考えられる。」と述べていることは、きわめて重大です。これは、教員の身分を脅かして無理やり研修を受けさせようとするものであり、脅迫による研修という、戦前にもなかった制度といわなければなりません。

3.教員の研修履歴をGIGAスクール構想による教育支配、デジタル庁創設による国民支配に組み込む

教文センターは、ブックレット「『GIGAスクール構想』光と影、教育の展望」で、「GIGAスクール構想」のねらいは、財界と国家権力が、あらゆる個人データを集積してそれを利潤追求と国民支配に利活用することを明らかにしています。

教育分野においては、子どもの健康診断の記録や学習履歴のデータなどの集積と利活用をねらっており、これらのデータを健康保険証、運転免許証、銀行口座などとともにマイナンバーと紐づけしようとしていることについても明らかにしています。

すでに述べたように、まとめ案は、
「①任命権者や服務監督権者・学校管理職等が個々の教師の学びを把握し、教師の研修受講履歴を記録・管理していくこと、
②教師と任命権者や服務監督権者・学校管理職等が、教員育成指標や、研修受講履歴等を手がかりとして、積極的な対話を行うとともに、 任命権者や服務監督権者・学校管理職等が、キャリアアップの段階を適切に踏まえるなど、教師本人のモチベーションとなるような形で、適切な研修を奨励することが必要である。」と述べています。

そして、研修履歴管理システムの構築のために、「一人一人の教師にシステムを利用するためのID(利用ID)を適切に付与する…児童生徒の学習履歴(スタディー・ログ)をはじめとした教育データを活用した個別最適な学びの充実を図っていく仕組みが今後構築されていく中にあっても利用可能なものとする」「今後、マイナンバーをはじめ、様々な政策分野のデータベースを連携させるようなIDの在り方が検討されることが期待される」と述べています。

まさに、子どもたちの教育データと一体に、教師一人ひとりの個別のデータを集積し、それをマイナンバーと紐づけすることを公言しているのです。

そもそも教員がどこでどのような研修をおこなったかは重要な個人情報です。個人情報保護法では、たとえば、個人を特定して図書館でどのような本を借りて読んだのかさえ、個人の内心に関するセンシティブな情報であり、これを本人の了解なしに明らかにすることは、個人情報保護法違反とされています。
ましてや教員がどのような研修をおこなったかは、まさに憲法第23条の学問の自由、19条の内心の自由によって保障されているものであり、それをIDによって個人を特定し、受講履歴として集積することは重大な憲法違反といわなければなりません。ところが、「まとめ案」には、「個人情報」という言葉は、たった一か所しか使われていないのです。

「まとめ案」は、ICTによる全国100万教職員の管理統制と国家権力による支配をねらうものであり、それをとおした教育支配をねらうものにほかなりません。

4.教職員支援機構の権限肥大化も重大

独立行政法人教職員支援機構は2000年に独立行政法人教職員支援機構法によってつくられ、2017年、教特法が変えられたことにともなって名称変更し、組織改編をおこなった組織です。法律によると、この機構の目的は、第3条で「校長、教員その他の学校教育関係職員に対し、研修の実施、職務を行うに当たり必要な資質に関する調査研究及びその成果の普及その他の支援を行うことにより、これらの者の資質の向上を図ることを目的とする。」とされています。

業務については、第10条で
「一 校長、教員その他の学校教育関係職員に対する研修を行うこと。
二 教育公務員特例法(昭和二十四年法律第一号)第二十二条の三第四項の規定による助言を行うこと。
三 前号に掲げるもののほか、学校教育関係職員に対する研修に関し、指導、助言及び援助を行うこと。
四 学校教育関係職員としての職務を行うに当たり必要な資質に関する調査研究及びその成果の普及を行うこと。
五 教育職員免許法(昭和二十四年法律第百四十七号)第九条の三第一項の規定による認定及び同法別表第三備考第六号の規定による認定(同法別表第四及び別表第五の第三欄並びに別表第六、別表第六の二、別表第七及び別表第八の第四欄に係るものを含む。)に関する事務を行うこと。
六 教育職員免許法第十六条の二第一項の規定による教員資格認定試験(文部科学大臣が行うものに限る。)の実施に関する事務を行うこと。
七 前各号の業務に附帯する業務を行うこと。」とされています。
上記から明らかなように、その業務は、教員の研修についての指導、助言、援助が中心です。

しかし、「まとめ案」は「教職員支援機構の果たすべき役割」と特に項目を立て、その中で、
「教職員支援機構は、研修履歴管理システムの構築・運用に参画し…構築・運用を担う」
「教職員支援機構自体も、『校内研修シリーズ』や新たなタイプの学習コンテンツの拡充等を含め、先進的な学習コンテンツの開発・提供主体となる。」

「都道府県教育委員会等の任命権者が、教職員支援機構の運営により積極的に参画することが求められる」
「教職員支援機構においては、本部会における検討と歩調を合わせながら…・研修受講履歴管理システムと3つの仕組みの一体的構築に向けた構想の具体化・都道府県教育委員会等の人的参画を得るために必要な環境の整備・都道府県教育委員会等のニーズを教職員支援機構の意思決定に反映させるためのガバナンスの在り方・教職員支援機構の業務の範囲等について具体的な検討に着手していく必要がある。」と述べています。

これは、明らかに教職員支援機構の肥大化です。同時に、いま機構に付与されている指導、助言、援助という業務を超えて教員を管理統制支配するものへと変質させることをねらうものと言わなければなりません。

5.教員の研修は教育のいとなみと一体、教員の研修権の発揮で教育を前進させよう

すでに述べたように、教員の研修は教育のいとなみの本質から導き出される権利であり、教育行政がそれを侵すことは、教育に対する不当な支配にほかならず、教育そのものの変質を意味するものです。

いま、学校現場では、昨年度の小学校に続き、今年度は中学校で新学習指導要領が全面実施されています。それに加え、GIGAスクール構想前倒しによって、子どもの教育はますます困難にされています。このもとで、今こそ教員が研修権を発揮し、新学習指導要領やGIGAスクール構想に合わせた教育ではなく、子どもの実態から出発する教育づくりと教育課程づくりをすすめることが強く求められています。そのとりくみをすすめるためには、教員の専門性の発揮が不可欠です。

それでは、教師の専門性とは何でしょう。
「学校の任務は、子どもや青年の人間的成長の課題によって規定され、教師は、子どもや青年の人間的成長をたすけ、その学習の権利の内実を充足させることを基本的な任務としているといってよい。

そのための教育の内容は、科学性(真実性)に貫かれ、芸術性(人間性)にとんだものでなければならず、教育方法は、教材を媒介としての教師と子どもの人間的接触の過程で駆使される科学的方法によってのみその有効性が保障される…教師は、科学的真実と芸術的価値にもとづく教育内容の研究者であり、子どもの発達についての専門的知識をもち、子どもの知性や感性の発達の順時性に即して教材を配列し、授業過程における教材と子どもの出会いのなかに、子どもの発達の新たな契機をさぐりあて、さらに新たに、適当な教材を準備することのできる専門家であることが要請されている。

これこそは教育の本質からくる要請である。だから、その専門性にもとづく教師に研究と教授の自由は、その関心のままに何を研究してもよく、その意図のままに何を教えてもよいという意味での研究や教育の自由ではありえない。それは、まさに、科学的真実と芸術的価値(何を)と、子どもの発達についての専門的知識(だれに)の研究という二つの契機によって規定されたものである。

さらに、子どもの学習が、将来にわたっての人間的成長(生存)と幸福を志向し、教育が子どもの可能性の開花のための目的意識的いとなみだとすれば、一時間一時間の授業実践のなかでも、教育の目的(何のために)が、子どもの可能性とかかわって問われていなければならない。それは、子どもの未来像、その将来の人間像をどうとらえるかという、より大きな問いと不可分である」
(『現代教育の思想と構造』堀尾輝久 1971年)

こうした専門性を発揮するためには、教員の自主的研修権の発揮が不可欠です。
「まとめ案」がいう研修は、まさに教員を洗脳することをねらうものといって過言ではなく、研修の名に値するものではまったくありません。

教員の専門性の発揮は、教育のいとなみの本質が要請するものです。
教育の目的は、子どもの成長・発達を助けるということです。教師は、教育権を持つ父母・保護者の負託を受けて、専門性を発揮して教育という仕事をすすめます。つまり、参加と共同の教育づくり・学校づくりが教員の専門性の発揮の基盤となるのです。

参加と共同の教育づくり・学校づくりを教育活動の中心にどっしりと据えて、父母と力をあわせて教育を前進させましょう。教員の研修権に対する不当な攻撃をうちやぶる力は、教員の研修権の積極的発揮と、参加と共同の学校づくりの中にあります。そのことに確信をもち、子どもの成長・発達を助けるという教育の条理を立脚点に教員の研修権の発揮と教育の前進をともにすすめましょう。

 

  

教員研修の大改悪ねらう中教審まとめ案

教員免許更新制廃止と引き換えに、
教員の研修の大改悪をねらう
―中教審「『令和の日本型教育』を担う
新たな教師の学びの実現に向けて」
審議のまとめ(案)へのコメントー

2021年9月15日
大阪教育文化センター 山口 隆

はじめに

中央教育審議会「『令和の日本型教育』を担う教師の在り方特別部会」は8月23日、「『令和の日本型学校教育』を担う新たな教師の学びの実現に向けて 審議まとめ(案)」(以下「まとめ案」)を発表しました。

「まとめ案」は、教員免許更新制廃止を口実に、あるいはこれと引き換えに、子どもの教育のためという教員の研修の意味とあり方を、国家目的のためと根本的に覆し、教員の研修権を根こそぎ奪い取る重大な問題をもつものであり、「まとめ案」によって教員免許更新制の廃止が方向づけられたということをいささかも評価することはできません。

それどころか、教員の研修について、これまでにない大改悪をおこなおうとするものです。さらに、教員の研修履歴の記録管理と活用によって、GIGAスクール構想と一体に、研修をとおして教員支配を強め、教育を変質させるものであり、教育を国家権力の意のままに動かそうとする大問題を持っていると考えます。

したがって、教員免許更新制の窓をとおして、教員免許更新制が廃止されるのかどうかという角度からのみこの問題を見るのは、大きな誤りであり、問題の本質を見誤ることになりかねません。「まとめ案」を教員の研修はどうあるべきかという視野からとらえなければ、本質はとらえられないと考えます。その視座から、以下、見解を明らかにするものです。

1.そもそも教員の研修とは何か
(1)教員の研修の実施主体は教員自身

教員の研修は、地方公務員法(地公法)ではなく、教育公務員特例法(教特法)によって規定されています。
はじめに念のために、地公法と教特法の関係について確認しておきたいとおもいます。地方公務員法が一般法であるのに対し、地方公務員法の特別法という位置にある法律が、教育公務員特例法です。 教特法は、地方公務員法と国家公務員法をベースにしつつ、教育公務員にのみ適用される特例的事項を定めている法律です。特別法は一般法よりも優先するので、教育公務員特例法は地方公務員法よりも優先します。

教員の研修は、一般行政職員の研修と本質的に異なります。地方公務員法が規定する一般公務員の研修は、実施主体は「任命権者」であり、研修の目的は「勤務能率の発揮及び増進」ですが、これに対して、教育公務員特例法は第21条で教員の研修について、「教育公務員は、その職責を遂行するために、絶えず研究と修養に努めなければならない」と規定しています。

つまり、教特法が規定する教員の研修は、実施主体は「教員」であり、目的は「職責の遂行」=子どもの成長・発達の保障です。
それは、一般行政は、議会の多数決によって決められた政策にもとづいてすすめられるものであり、教育は多数決では決まらない真理・真実にもとづいておこなうものであるという本質的な違いがあるからにほかなりません。

したがって、教員に研修権が保障されていることは、真理・真実の教育をすすめるために、教員が自ら研修を企画、計画し実践する権利と責任を持っているということを意味します。教育行政は、いうまでもなく教員の研修の実施主体ではなく、教員が実施主体としておこなう自主的・自発的研修に要する施設、研修を奨励するための方途などの条件整備をおこなうことがその果たすべき役割です。

(2)教員の研修は教育のいとなみと一体

教育の目的は人格の完成=子どもの成長・発達を助けることです。人間はいうまでもなく自然や社会とのかかわりをとおして、また、自然と社会との諸関係の中で成長・発達する存在です。学校教育の中心となる目的は、子どもたちが、自らがかかわりをもちながら発達していく自然や社会についての基礎的、基本的な認識を身につけさせることにあります。

その基礎的、基本的な知識は、真理・真実にもとづくものでなければなりません。真理・真実は多数決では決まらず、学問の自由の保障のもとに研究され、確かめられてきた人類の英知の成果です。

教育と学問の自由がわかちがたく結びついているのは、教育が真理・真実にもとづいておこなわれなければならないという、そのいとなみの本質に由来します。また、そうした基礎的、基本的な知識は、子どもたちに命令したり強制したりして外から無理やり身に着けさせようとしても身につくものではありません。子どもがみずから理解し、納得しながら身につけていくものです。

子どもが理解、納得するためには、単に子どもたちに知識を伝達すればよいというものではありません。子どもたちは、そうした真理・真実にもとづく自然や社会についての基礎的基本的な知識を自分の中に取り込み、自分の中で組み替えることによって理解していきます。

教育といういとなみは、そういうふうに子どもの内面に働きかけることによって、私たち大人の予測を超えた可能性を持つ新しい世代の実現をめざすという、未来に向けた創造的ないとなみです。これが、教育が負っている国民全体に対する重要な責務です。

(3)教員の研修権は、教育の目的を果たすためにある

この責務を果たすために教員の研修権が保障されています。だから、教員の研修は、教科に対する専門的な知識を身につけ、指導方法を向上させること、子どもたちの人格形成をうながすための共感、理解、人間的なはたらきかけについての見識とその実践をすすめる力を身につけること、憲法と教育の条理に対する理解を深めることなどを中心とした「研究と修養」という幅広いものです。

ILOユネスコ「教員の地位に関する勧告」は第6項で、「教育の仕事は、専門職とみなされるべきである。この職業は厳しい、継続的な研究を経て獲得され、維持される専門的知識および特別な技術を教員に要求する公共的業務の一種である。また責任を持たされた生徒の教育および福祉に対して、個人的および共同の責任感を要求するものである」と述べています。これが国際的基準です。

2.自主的研修を根こそぎ奪い取り、命令研修とする「まとめ案」―重大な憲法違反

「まとめ案」は、「公立学校教師に対する学びの契機と機会の確実な提供(研修受講履歴の記録管理、履歴を活用した受講の奨励の義務づけ)」と述べ、
「①任命権者や服務監督権者・学校管理職等が個々の教師の学びを把握し、教師の研修受講履歴を記録・管理していくこと、
②教師と任命権者や服務監督権者・学校管理職等が、教員育成指標や、研修受講履歴等を手がかりとして、積極的な対話を行うとともに、 任命権者や服務監督権者・学校管理職等が、キャリアアップの段階を適切に踏まえるなど、
教師本人のモチベーションとなるような形で、適切な研修を奨励することが必要である。」と述べています。

また、「任命権者等は当該履歴を記録管理する過程で、特定の教師が任命権者や服務監督権者・学校管理職等の期待する水準の研修を受けているとは到底認められない場合は、服務監督権者又は学校管理職等の職務命令に基づき研修を受講させることが必要となることもありえる。万が一職務命令に従わないような事例が生じた場合は、地方公務員法第 29 条第1項第2号に規定する懲戒処分の要件、『職務上の義務に違反し、又は職務を怠つた場合』に当たり得ることから、事案に応じて、任命権者は適切な人事上又は指導上の措置を講じることが考えられる。」と述べています。

つまり、公立学校教員個々の研修受講履歴を都道府県教育委員会や市町村教育委員会や校長が管理し、その履歴をもとに研修が不十分であると教育行政が判断したものに対しては、実質上の命令である研修奨励をおこない、教員が奨励された研修を受講していない場合は職務命令として研修を命じ、それでも受講しなければ「職務命令違反」として処分するというものです。これはつまるところ、国家権力が教員の研修を支配し、それをとおして教育支配をおこなうことを意味します。

このことの持つ重大な問題は、3点あります。
第1は、任命権者や服務監督権者や学校管理職が教員の研修の内容をチェックして、研修の当否を決めるということです。それは、憲法第23条が規定する学問の自由の侵害であり、「検閲はこれをしてはならない」という憲法第21条の侵害であり、二重の重大な憲法違反です。

第2は、命令研修です。
2016年に教特法が改悪され、文部科学大臣が研修にかかわる「指針」を定めることや任命権者がその指針を参酌して「校長及び教員の資質の向上に関する指標」を定めることにされましたが、それはあくまで「指針」であり「指標」であって、命令研修を予定しているものではありません。
「まとめ案」が、「服務監督権者又は学校管理職等の職務命令に基づき研修を受講させる」と述べていることは、文字通り命令研修であり、教員の研修に真っ向からそむく、教育の条理を踏みにじるやり方です。

第3は、処分まで言及していることです。
「まとめ案」が「万が一職務命令に従わないような事例が生じた場合は、地方公務員法第 29 条第1項第2号に規定する懲戒処分の要件、『職務上の義務に違反し、又は職務を怠つた場合』に当たり得ることから、事案に応じて、任命権者は適切な人事上又は指導上の措置を講じることが考えられる。」と述べていることは、きわめて重大です。これは、教員の身分を脅かして無理やり研修を受けさせようとするものであり、脅迫による研修という、戦前にもなかった制度といわなければなりません。

3.教員の研修履歴をGIGAスクール構想による教育支配、デジタル庁創設による国民支配に組み込む

教文センターは、ブックレット「『GIGAスクール構想』光と影、教育の展望」で、「GIGAスクール構想」のねらいは、財界と国家権力が、あらゆる個人データを集積してそれを利潤追求と国民支配に利活用することを明らかにしています。

教育分野においては、子どもの健康診断の記録や学習履歴のデータなどの集積と利活用をねらっており、これらのデータを健康保険証、運転免許証、銀行口座などとともにマイナンバーと紐づけしようとしていることについても明らかにしています。

すでに述べたように、まとめ案は、
「①任命権者や服務監督権者・学校管理職等が個々の教師の学びを把握し、教師の研修受講履歴を記録・管理していくこと、
②教師と任命権者や服務監督権者・学校管理職等が、教員育成指標や、研修受講履歴等を手がかりとして、積極的な対話を行うとともに、 任命権者や服務監督権者・学校管理職等が、キャリアアップの段階を適切に踏まえるなど、教師本人のモチベーションとなるような形で、適切な研修を奨励することが必要である。」と述べています。

そして、研修履歴管理システムの構築のために、「一人一人の教師にシステムを利用するためのID(利用ID)を適切に付与する…児童生徒の学習履歴(スタディー・ログ)をはじめとした教育データを活用した個別最適な学びの充実を図っていく仕組みが今後構築されていく中にあっても利用可能なものとする」「今後、マイナンバーをはじめ、様々な政策分野のデータベースを連携させるようなIDの在り方が検討されることが期待される」と述べています。

まさに、子どもたちの教育データと一体に、教師一人ひとりの個別のデータを集積し、それをマイナンバーと紐づけすることを公言しているのです。

そもそも教員がどこでどのような研修をおこなったかは重要な個人情報です。個人情報保護法では、たとえば、個人を特定して図書館でどのような本を借りて読んだのかさえ、個人の内心に関するセンシティブな情報であり、これを本人の了解なしに明らかにすることは、個人情報保護法違反とされています。
ましてや教員がどのような研修をおこなったかは、まさに憲法第23条の学問の自由、19条の内心の自由によって保障されているものであり、それをIDによって個人を特定し、受講履歴として集積することは重大な憲法違反といわなければなりません。ところが、「まとめ案」には、「個人情報」という言葉は、たった一か所しか使われていないのです。

「まとめ案」は、ICTによる全国100万教職員の管理統制と国家権力による支配をねらうものであり、それをとおした教育支配をねらうものにほかなりません。

4.教職員支援機構の権限肥大化も重大

独立行政法人教職員支援機構は2000年に独立行政法人教職員支援機構法によってつくられ、2017年、教特法が変えられたことにともなって名称変更し、組織改編をおこなった組織です。法律によると、この機構の目的は、第3条で「校長、教員その他の学校教育関係職員に対し、研修の実施、職務を行うに当たり必要な資質に関する調査研究及びその成果の普及その他の支援を行うことにより、これらの者の資質の向上を図ることを目的とする。」とされています。

業務については、第10条で
「一 校長、教員その他の学校教育関係職員に対する研修を行うこと。
二 教育公務員特例法(昭和二十四年法律第一号)第二十二条の三第四項の規定による助言を行うこと。
三 前号に掲げるもののほか、学校教育関係職員に対する研修に関し、指導、助言及び援助を行うこと。
四 学校教育関係職員としての職務を行うに当たり必要な資質に関する調査研究及びその成果の普及を行うこと。
五 教育職員免許法(昭和二十四年法律第百四十七号)第九条の三第一項の規定による認定及び同法別表第三備考第六号の規定による認定(同法別表第四及び別表第五の第三欄並びに別表第六、別表第六の二、別表第七及び別表第八の第四欄に係るものを含む。)に関する事務を行うこと。
六 教育職員免許法第十六条の二第一項の規定による教員資格認定試験(文部科学大臣が行うものに限る。)の実施に関する事務を行うこと。
七 前各号の業務に附帯する業務を行うこと。」とされています。
上記から明らかなように、その業務は、教員の研修についての指導、助言、援助が中心です。

しかし、「まとめ案」は「教職員支援機構の果たすべき役割」と特に項目を立て、その中で、
「教職員支援機構は、研修履歴管理システムの構築・運用に参画し…構築・運用を担う」
「教職員支援機構自体も、『校内研修シリーズ』や新たなタイプの学習コンテンツの拡充等を含め、先進的な学習コンテンツの開発・提供主体となる。」

「都道府県教育委員会等の任命権者が、教職員支援機構の運営により積極的に参画することが求められる」
「教職員支援機構においては、本部会における検討と歩調を合わせながら…・研修受講履歴管理システムと3つの仕組みの一体的構築に向けた構想の具体化・都道府県教育委員会等の人的参画を得るために必要な環境の整備・都道府県教育委員会等のニーズを教職員支援機構の意思決定に反映させるためのガバナンスの在り方・教職員支援機構の業務の範囲等について具体的な検討に着手していく必要がある。」と述べています。

これは、明らかに教職員支援機構の肥大化です。同時に、いま機構に付与されている指導、助言、援助という業務を超えて教員を管理統制支配するものへと変質させることをねらうものと言わなければなりません。

5.教員の研修は教育のいとなみと一体、教員の研修権の発揮で教育を前進させよう

すでに述べたように、教員の研修は教育のいとなみの本質から導き出される権利であり、教育行政がそれを侵すことは、教育に対する不当な支配にほかならず、教育そのものの変質を意味するものです。

いま、学校現場では、昨年度の小学校に続き、今年度は中学校で新学習指導要領が全面実施されています。それに加え、GIGAスクール構想前倒しによって、子どもの教育はますます困難にされています。このもとで、今こそ教員が研修権を発揮し、新学習指導要領やGIGAスクール構想に合わせた教育ではなく、子どもの実態から出発する教育づくりと教育課程づくりをすすめることが強く求められています。そのとりくみをすすめるためには、教員の専門性の発揮が不可欠です。

それでは、教師の専門性とは何でしょう。
「学校の任務は、子どもや青年の人間的成長の課題によって規定され、教師は、子どもや青年の人間的成長をたすけ、その学習の権利の内実を充足させることを基本的な任務としているといってよい。

そのための教育の内容は、科学性(真実性)に貫かれ、芸術性(人間性)にとんだものでなければならず、教育方法は、教材を媒介としての教師と子どもの人間的接触の過程で駆使される科学的方法によってのみその有効性が保障される…教師は、科学的真実と芸術的価値にもとづく教育内容の研究者であり、子どもの発達についての専門的知識をもち、子どもの知性や感性の発達の順時性に即して教材を配列し、授業過程における教材と子どもの出会いのなかに、子どもの発達の新たな契機をさぐりあて、さらに新たに、適当な教材を準備することのできる専門家であることが要請されている。

これこそは教育の本質からくる要請である。だから、その専門性にもとづく教師に研究と教授の自由は、その関心のままに何を研究してもよく、その意図のままに何を教えてもよいという意味での研究や教育の自由ではありえない。それは、まさに、科学的真実と芸術的価値(何を)と、子どもの発達についての専門的知識(だれに)の研究という二つの契機によって規定されたものである。

さらに、子どもの学習が、将来にわたっての人間的成長(生存)と幸福を志向し、教育が子どもの可能性の開花のための目的意識的いとなみだとすれば、一時間一時間の授業実践のなかでも、教育の目的(何のために)が、子どもの可能性とかかわって問われていなければならない。それは、子どもの未来像、その将来の人間像をどうとらえるかという、より大きな問いと不可分である」
(『現代教育の思想と構造』堀尾輝久 1971年)

こうした専門性を発揮するためには、教員の自主的研修権の発揮が不可欠です。
「まとめ案」がいう研修は、まさに教員を洗脳することをねらうものといって過言ではなく、研修の名に値するものではまったくありません。

教員の専門性の発揮は、教育のいとなみの本質が要請するものです。
教育の目的は、子どもの成長・発達を助けるということです。教師は、教育権を持つ父母・保護者の負託を受けて、専門性を発揮して教育という仕事をすすめます。つまり、参加と共同の教育づくり・学校づくりが教員の専門性の発揮の基盤となるのです。

参加と共同の教育づくり・学校づくりを教育活動の中心にどっしりと据えて、父母と力をあわせて教育を前進させましょう。教員の研修権に対する不当な攻撃をうちやぶる力は、教員の研修権の積極的発揮と、参加と共同の学校づくりの中にあります。そのことに確信をもち、子どもの成長・発達を助けるという教育の条理を立脚点に教員の研修権の発揮と教育の前進をともにすすめましょう。

 

  

中教審答申を読み解く

中教審答申を読み解く
中央教育審議会「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現~(答申)」について

2021年2月16日
大阪教育文化センター事務局長 山口 隆
【大阪教育文化センターだより№152(2月22日)に掲載】

はじめに

中央教育審議会(中教審)は1月26日、「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現~」と題する答申(以下、答申)を発表しました。この答申は、後で述べるように、菅内閣がすすめる、デジタル化による国民管理と支配の一環として、ICTによる子どもと教育の支配をねらう重大な問題点を持つものです。また、新学習指導要領が2020年度に小学校で全面実施されたばかりなのに、GIGAスクール構想の前倒しに沿って、早くも新学習指導要領が打ち出した方向を修正しようとするものです。こうした重大な問題点とともに、現場で活用できるいくつかの注目すべき点もあると考えます。
以下、この答申について、とりあえずのコメントをおこないます。

1.ICTによる国民管理の一環として、子どもと教育の管理をねらう

菅内閣は、マイナンバーカードの運転免許証や健康保険証、銀行口座との紐づけなどをすすめようとしています。どれもが重要な個人情報であり、こうしたあらゆる個人情報を一元的に管理することで、国家権力が国民を管理し、監視するとともに、このデータを民間ビジネスにも利用しようとするものです。そのためにデジタル庁を創設しようとしています。

答申では、教師の負担軽減を口実に、ICTを活用して、子どもたちの学習履歴(スタディー・ログ)や生徒指導上のデータ、健康診断情報等を蓄積し、利活用すると述べています。上記のマイナンバーカードとの紐づけと一体に、子どもたちの学習や生活の履歴という個人情報が蓄積されれば、子ども時代から大人になるに至るまでの個人情報が一元的に管理されることになり、それをとおした国民管理にとどまらず、子どもと教育の管理をねらうものといわなければなりません。

2.「個別最適な学び」の名のもとに、学習の変質をねらう

答申は、「個別最適な学び」という文言を使用しています。これまで文部科学省は、Society5.0に向けた学校ver3.0では、「個別最適化された学び」という文言を使用していました。微妙に表現をたがえているのは、「誰のために誰が個別最適化したのか」という批判をかわすために、おそらくは、「子どもにとって」「個別最適な」学びという表現と受け止められるためのレトリックだと考えられますが、答申自身が「Society5.0時代が到来しつつあり」と述べていることからも明らかなように、本質的には、これまで文部科学省が述べてきた「個別最適化された学び」と変わりはないと考えられます。そのうえで、ここでは、答申の「個別最適な学び」という文言を使います。

この「個別最適な学び」は、学習のあり方そのものを変質させるものであると言って過言ではありません。本来学習は、個別性を持ちつつも、集団性を持つものです。とりわけ学校は、子どもたちの集団的な学びを保障するためにあります。子どもたちは、自然や社会、人間に対する認識を自然とかかわりながら、社会とかかわりながら、そして、集団とかかわりながら学んでいきます。それは、まぎれもなく集団的な学びであり、授業は、そうした対話的、応答的関係でつくりあげられるものです。
そのことについて、大阪教育文化センターは提言「オンライン授業について」で、以下のように述べています。

「授業での対話的・応答的関係は、教師と子どもたちとの間だけで展開されるものではありません。授業は学級という集団でおこなわれます。その中で、子どもたちどうしの対話的・応答的関係が形づくられます。集団で学ぶからこそ、たとえば、ある子が発言したときに、「それは、わたしの考えと少し違うような気がする」また、「私の考えとよく似ている」と、ほかの子が心を動かします。そして、そのことを発言します。そのことの積み上げによって、授業に広がりと深まりが出てくるのは、これも多くの先生方が経験されていることと思います。」

ところが、「個別最適な学び」は、そうではなく、学習を子ども個人のものとしてしまいます。つまり、本来、集団で学びあうべきである学習活動を、学習を個別化して、子どもどうしを切り離してしまう危険があるということです。これは、学習の変質をもたらすものであり、学習活動における自己責任論ともいえるものではないでしょうか。
こうした危険性を直視する必要があります。

3.矛盾に満ちた新学習指導要領路線からの修正

上述した問題点があるからこそ、答申も「個別最適な学び」一辺倒の記述はしていません。答申は、「個別最適な学び」とセットで「協働的な学び」を強調しています。答申は、「新学習指導要領の着実な実施」と述べていますが、中でも、授業改善については、「主体的・対話的で深い学び」を強調しています。「主体的・対話的で深い学び」をその言葉通り受け止めれば、それは、現場での実践が追求してきた授業のあり方と重なるものであり、「個別最適な学び」とは相いれないものです。

答申の本音は、新学習指導要領路線からGIGAスクール構想を中心とするICT教育路線への修正をはかろうとするものですが、まだ、新学習指導要領が全面実施された年度の途中であることも意識し、新学習指導要領を全面的に否定することはできずにいます。その姿が、本来相いれない「個別最適な学び」と「主体的・対話的で深い学び」が共存しているのは、そうした矛盾のあらわれにほかなりません。

4.実態を無視した教科担任制の導入

答申は、多くのマスコミも報道したように、小学校高学年への教科担任制の導入に言及しました。しかしこれには、大きな問題があります。

第1は、子どもの発達段階からみて、問題があるということです。これまで日本では、小学校段階では学級担任制、中学校以降は教科担任制がとられてきています。なぜ小学校で学級担任制がとられてきたかといえば、それは、小学校段階の子どもたちにとって、学習集団であると同時に生活集団である学級を教科で切り離すのではなく、子どもの生活と学習を一体的にとらえることができる学級担任制が望ましいと考えられてきたからにほかなりません。とりわけ思春期前期の入り口にあたる小学校高学年の子どもたちに対する指導は、大変デリケートな配慮が必要であり、生活集団と学習集団が一体である学級集団であるからこそ、そうした配慮が可能となります。そのことを考慮に入れない小学校高学年の教科担任制導入は、現場に大きな負担を強いることとなります。

第2は、学級担任を前提として算出される教職員定数では、教科担任制はできないということです。
義務標準法は小学校での学級担任制と中学校での教科担任制を前提に教職員定数を定めています。たとえば、小学校で6学年すべて3学級で、全校18学級の場合、乗ずる数は1.2であり、教員数は21.6≒22人となりますが、中学校で3学年すべて6学級で18学級の場合は、乗ずる数は、1.557であり、教員数は、28.0≒28人となります。同じ学級数で、小学校の教員数は中学校より6人も少ないのであり、これで教科担任制を導入するというのは、教員の負担増となるのは、誰が見ても明らかです。

ただでさえ教職員は、過労死ラインを超える長時間・過密労働の実態に置かれており、教科担任制によって、さらに負担を強いることは、子どもの教育にとって大きな否定的影響を及ぼすこととなります。
教職員定数を抜本的に見直すというのならば、まだ議論の余地はありますが、現在の教職員定数をそのままにして、小学校高学年の教科担任制を導入することは、百害あって一利なしと言わなければなりません。

5.私たちの側に引き寄せ、現場の教育活動で活用可能ないくつかの記述

一方で答申には、私たちが現場で活用できるいくつかの記述が散見されます。

第1は、学校の役割についてです。
答申は、「新型コロナウイルス感染症の感染拡大を通じて再認識された学校の役割」という項を起こして、「子供たちや各家庭の日常において学校がどれだけ大きな存在であったのかということが、改めて浮き彫りになった」と述べ、「学校は、学習機会と学力を保障するという役割のみならず、全人的な発達・成長を保障する役割や人と安全・安心につながることができる居場所・セーフティネットとして身体的、精神的な健康を保障するという福祉的な役割をも担っていることが再認識された」と述べています。しかも、それらを「日本型学校の強み」とまで述べているのです。そうした学校は、教科、教科外の教育活動全体をとおして、子どもたちの「人格の完成」をめざし、営々と積み上げられてきた現場の教育実践、教育活動の総和にほかなりません。私たちは、答申も認めざるを得ない、こうした学校の果たしている役割に確信を持ち、これを活用し、子どもたちの実態に即した教育活動をさらに前進させていく必要があります。

また、答申は、「学級づくりの取組や、感染症対策を講じた上で学校行事を行うための工夫など、学校教育が児童生徒同士の学び合いの中で行われる特質を持つ」「学校の授業における学習活動の重点化や次年度以降を見通した教育課程編成といった特例的な対応がとられた。このように我が国の学校に特徴的な特別活動が、子供たちの円滑な学校への復帰や、全人格的な発達・成長につながる側面が注目された」とも述べています。これらは、『おおさかの子どもと教育』100号で紹介したように、コロナ禍の困難な状況であっても、現場ですすめられてきた「手探りの実践」が子どもたちの成長・発達を助ける重要ないとなみであったことを示しており、ここにも注目する必要があり、現場での実践を前進させるうえで活用できるものであると考えます。

第2は、ICTの位置づけについてです。すでに述べたように、答申の基本性格は、ICTによる子どもと教育の管理・支配にありますが、仔細に見てみるといくつかの活用できる記述も見受けられます。その1つは、ICT活用に関する基本的な考え方について、「ICTを活用すること自体が目的化してしまわないよう、十分に留意することが必要である。直面する課題を解決し、あるべき学校教育を実現するためのツールとして、いわゆる『二項対立』の陥穽に陥ることのないよう」と述べるとともに、子どもたちに対しては、「児童自身がICTを『文房具』として自由な発想で活用できるよう環境を整え、授業をデザインすることが重要」と述べています。一人1台のタブレットが配布されれば、今後、地教委などをとおして、あたかもICTを使うことが自己目的であるかのような押しつけがおこなわれる可能性がありますが、答申のこの文言を活用すれば、そうした押しつけを打ち破ることが可能であると考えます。

第3は、少人数編成への言及です。
答申は、コロナ禍での学校の実態について、「一クラスあたりの人数が多い学校では、クラス全員で一斉に授業を行おうとすれば、感染症予防のために児童生徒間の十分な距離を確保することが困難な状況も生じている」という認識を示し、「教室環境や指導体制等の整備を行うことが必要」としています。また、「『新しい生活様式』を踏まえた身体的距離の確保に向けて、教室等の実態に応じて少人数編成を可能とするなど、少人数によるきめ細かい指導体制…検討を進め」とも述べています。「少人数学級」という言葉を使うことは注意深く避けつつも、コロナ禍が浮き彫りにした1学級当たりの子どもの数が多すぎるということは認めざるを得ません。

この間、父母・国民、教職員などの粘り強い運動の結果、40年ぶりに義務標準法が改定され、小学校の35人学級が5年がかりという不十分さはあるものの実現した到達点をふまえ、さらにそれを前進させる足掛かりとして、この答申を活用することも可能ではないかと考えます。

おわりに

今後、さまざまな場で、この答申について議論されることだと思います。教文センターもコロナ禍のもとで延期されている研究会が再開されたら、それぞれの研究会の課題に引き寄せてこの答申を議論することが求められていると考えます。その際、このコメントが議論の一助となれば、大変うれしく思います。拙文を読まれたみなさん。ぜひ、ご意見をお寄せください。

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【授業時数Q&A】ちょっと待った!

【授業時数問題Q&A】
ちょっと待った! 授業時数は足りている!
行事の削減,夏休み等の大幅削減は必要なし

2020年7月8日 大阪教育文化センター事務局
8月3日追加

Q 授業時数は,本当に足りているのですか?

A 本当です。
 教科書のみを使い,文科省の要請で教科書会社がつくっている「重点化」を行うだけでも,授業時数は確保できます。
 文部科学省は6月5日,「学校の授業における学習活動の重点化に係る留意事項について」という通知を出しました。その内容は大雑把に言うと,小学校6年,中学校3年は学校で教える内容を2割削減するというものです。

■学習活動の重点化等に資する年間指導計画参考資料■(教科書協会)

 これに基づき,各教科書会社が「重点化」という名の「削減案」をつくっています。

 それを見ると,6年算数では年間標準授業時数は175時間ですが,教科書は175時間で編集されていません。東京書籍の教科書では155時間で編集されています。これが「重点化」によって,107時間としています。これは標準授業時数の61%ほどになります。

短縮しなくても十分確保できる

 大阪の場合,多くの学校が6月15日から再開されました。従来の夏休みや祝日等を除くと,残り31週分の授業日があります。
 つまり,175×31/35=155時間の授業時数となります。だから,夏休みや冬休み等を短縮しなくても,ましてや7時間授業や土曜授業をしなくても,107時間の授業時数は十分確保できます。
 国語の場合も同様です。標準授業時数175時間に対し,光村図書の指導書では配当時間が145時間,「重点化」によって119時間ほどになっています。

【付記】文部科学省は「新型コロナウィルス感染症対策のための臨時休業により,学校教育法施行規則に定める標準授業時数を踏まえて編成した教育課程の授業時数を下回ったことのみをもって,学校教育法施行規則に反するものとはされない」「令和3年度又は令和4年度までの教育課程を見通して検討を行い,学習指導要領において指導する学年が規定されている内容を含め,次学年又は次々学年に移して教育課程を編成する」(5月15日通知 第265号)と記しています。
これは,「標準時数を下回っても学校教育法施行規則に反しない,各学校は今年度の学習内容については2〜3年かけて教育課程を編成すればよい」ということです。

Q 中学校はどうでしょうか?

A 中学校も大丈夫です。中学3年生を見てみましょう。(1,2年生の場合も同様)

 表のAは指導書に掲載されている年間授業計画の授業数(平均)です。Bは「学習活動の重点化」に伴った授業時数です。Bは大阪教文センターの「提言」で示した時数(9月再開〜2月の23週分)とほぼ同数です。
 表中央や右の「短縮なし」は6月中旬〜3月卒業式まで,夏休み短縮なし,7限授業や土曜授業を考えていない場合(中3は30週 中1中2は31週)の時数です。これだけ見ても十分に授業時数は確保できます。

現場は「詰め込み」の年間計画に

Q それでは,夏休みなどを短縮したりすると「やりすぎ」になるのですか?

A そうです。以下の表を見てください。6月中旬以降学校が再開し,30日以上夏休みを短縮した(大阪の場合)中学校の試算です。これでは例年の授業時数と何ら変わりなく,9ヶ月ほどで1年間の授業を詰め込むということになります。

 このように「新しい生活様式」といいながら,これまでの「学習の遅れ」を取り戻す・標準授業時数を確保するべく,「コロナ以前」にもどり,これまで以上の詰め込まれた時間割となっている学校が多いようです。これでは人類が新たな感染症とどう向き合っていくのか模索しているときに,逆行する行為です。

年間計画は柔軟な対応を

Q でも,今から夏休みの短縮をやめるというのも難しいでしょうし,どうすればいいですか?

A 生まれてきた余裕の時間を活用して,子どもたちとゆったりと学ぶことを追求してはどうでしょうか。教育にとって一番大事なのは子どもです。そして先生は教育の専門家です。だから「授業時数確保」の名の下に,子どもたちに無理やり教科書の中身を押しつけるのではなく,子どもの実態・様子をじっくりと見て,指導に軽重をつけることが大切です。それができるのは,専門家としての教師です。

Q 具体的にはどうしたらいいのでしょうか。

A 運動会や文化祭等の学校行事が削減されたとしても,時間のゆとりを使って学級・学年で文化行事やレクリェーションにとりくむことも可能です。それが「自前の教育課程づくり」です。
 そして学年単位なら子どもたちとともに企画立案段階から考えていくことで子どもの自治意識も育っていきます。
 また教科の授業が標準時数の6割程度で計画できるなら,残りの時間を精選した学習内容にじっくりと時間をかけることもできます。そうすることで「主体的で」「深い学び」を体験できます。

 【追加】もうひとつ。子どもの発達段階に応じて,道徳や「総合」「探究」の時間や教科横断の時間を使って,新型コロナウィルスや感染症に関する学習を子どもたちとともに手探りで調べ学習を進めることもできます。現在わかっている新型コロナウィルスの正体や予防の方法,感染症と人類の歴史,科学や医学の進歩,感染が広まる中での人間の行動や道徳性などを学習することも可能です。

 例えば,ナイチンゲールを調べようとしたら,統計学や戦争と感染症の関連なども学習できるチャンスともなります。それぞれで調べた内容を発表し合うのもいいでしょう,調べた内容をさらに深く学習することも可能です。そしてポストコロナで私たちの生活がどう変わっていくのか,人類の進む道を議論し,その結果を何らかの形で報告することもできます。

 ぜひ,「提言」(4月27日)の精神を生かした学校づくりを,足もとの学級づくりから始めませんか。

【付記】文部科学省「学びの保障」の方向性
 文科省5月15日通知の『新型コロナウィルス感染症の影響を踏まえた学校教育活動等の実施における「学びの保障」の方向性等について』を要約すると,

①行事等を含めた学校ならではの学びを大切にする
②Withコロナをふまえて学習内容や指導方法の柔軟な見直し
③授業時数は子ども・教職員の負担軽減も配慮する

となっています。

  

【追加提言3】小学6年 中学3年の教育課程について

2020年5月26日 大阪教育文化センター事務局

指導内容 複数学年にわたって教育課程を編成

文部科学省は5月15日,「新型コロナウイルス感染症を踏まえた学校教育活動等の実施における『学びの保障』の方向性等について(通知)」を出し,その中で「令和3年度又は令和4年度までの教育課程を見通して検討を行い,学習指導要領において指導する学年が規定されている内容を含め,次学年又は次々学年に移して教育課程を編成する」と述べています。

このこと自体は,新学習指導要領が示す教育内容を,これまでのように何が何でも子どもと学校に押しつけようとするものではなく,2・3年の幅を持たせて,すすめようとするものであり,以前の学習指導要領押しつけ路線では今の事態は打開できないことのあらわれとみることができるでしょう。

ありえない 小学6年・中3の除外

しかし,上記の内容が,「今年度在籍している最終学年以外の児童生徒」とされていることは問題です。つまり小学校6年生と中学校3年生は,上記の内容が適用されず,新学習指導要領が示す教育内容を,長期に休校がおこなわれたにもかかわらず,残りの日程で指導せよということになります。

これはいくら何でもおかしいのではないでしょうか。小学校6年生と中学校3年生が,その他の学年の子どもたちと違って,詰め込んだら詰め込んだだけ受け入れることのできる特別の能力の持ち主だとでもいうのでしょうか。そんなことはありえないことです。

教育課程編成をおこなうのは学校

そもそも教育課程編成をおこなうのは,学習指導要領総則1の1で「各学校において…教育課程を編成する」と述べているように,学校なのですから,最終学年の教育内容をどうするかについても,学校の教育課程編成に任せるべきです。そうすれば,学校はそれを受け止め,知恵を絞ることができます。私たちの「提言」で述べたように,小学校6年生であっても,中学校3年生であっても,「子どもたちにとって大事なことを絞り込んで,教育内容の大胆な削減」をおこなうことは可能です。その場合,どうしても6年生で身につけておくべき内容は,しっかりと時間を取り,中学校でも学ぶ内容は,6年生では大胆に削減し,中学校で力を入れて教えてもらうようにすればいいのではないでしょうか。

小中連携をふまえて「持ち越す」ことも

私たち大阪教育文化センターは,すでに「大阪教育文化センターだより」143号(2020年3月26日付)で,以下のことを提案しています。

「小中一貫」や「小中連携」を活用することも可能ではないでしょうか?とかく無駄な会議をやらされることも多い「小中一貫」ですが,これを活用して,例えば,小学校で教え残しがあった場合,小学校で無理することなく,中学校で指導してもらうようお願いし,合意をつくることもできるのではないでしょうか?それは,子どもの実態をふまえた本来の意味での「小中連携」になると思います。

以上をふまえ,小学校6年生の算数をどうするかについては,以下で示しています。ぜひ,ご検討ください。

高校入試・大学入試等へは試験範囲の削減を

中学校3年生の場合は,高校受験との関係があるので,すでに「提言」で,以下のことを提案しています。

今年の高校3年生,中学3年生の多くは来年に上級学校への受験を控えています。各校長会や進路指導協議会が中心となって,文科省,都道府県教委へ受験教科(それ以外の教科も)に対する教科書の試験範囲の削減を具体的に申し入れること。例えば,数学では中学3年生は後半で学習する円の性質,三平方の定理,標本調査(統計分野)の削減,高等学校数学Ⅲでは試験範囲を微分法までにし,積分法以降は試験範囲から外すことなど。

これらを具体化すれば,中学校3年生に過大な負担を課すことなく,受験への不安もやわらげることが可能なのではないでしょうか。これもご検討ください。

【追加】小学6年算数・中学3年数学について

【小学6年算数】89時間。中学校から下りてきた「文字と式」「資料の調べ方」などとあわせ,中学校と関連する学習内容を削減すれば,分数の乗除と割合(比とその利用)しか残りません。「対称な図形」「円の面積」「立体の体積」「比例と反比例」「図形の拡大と縮小」などは基本的なことを中心に,時間があれば深く学ぶようにします。
 なお,これから分散登校が続くようであれば,
 ①くりあがり・くりさがり ②かけ算九九
(プリント・動画は 数教協■さんすうしぃ!■参照)
 ③分配法則を使用しない計算の順番
 ④将棋盤(オセロゲームなど)と碁盤(座標)のちがいやマス目の数え方
 ⑤角の大きさのとらえ方などを復習します。

小学6年算数授業計画

【 中学3年数学 】■中3数学の授業計画はコチラ■
(【提言】§3具体的なとりくみ(2)9月再開を想定した計画[2]中学・高校の場合)

【提言】学校再開に向けた、いまだかつてないとりくみを

  

【追加提言2】「オンライン授業」について

授業—教師と子どもの息づかいが
感じられる空間だからこそ

2020年5月18日 大阪教育文化センター事務局

はじめに

提言」でもいわゆる「ネット授業」についてという項目で,その問題点について述べましたが,「オンライン授業」が必要以上にもてはやされる状況や一人一台のPCの前倒しなどがおこなわれようとしているもとで,あらためて「オンライン授業」について考える必要があるのではないかと思います。

もちろん,「オンライン授業」をすべて否定するものではありません。子どもの教育に役立つように使うことは大切なことだと考えます。
しかし,「オンライン授業」が授業をすべてカバーできるのかと言えば,そうではないと考えます。
その際,子どもたちの家庭にすべてネット環境が整っているわけではない,という問題や,そのことが引き起こす教育格差の問題は当然あり,これも大変重大な問題だと思います。
しかし,ここでは,そのことはひとまず横に置き,授業そのものをどうとらえるのかという角度から述べたいと思います。ご検討いただけたらうれしく思います。

授業は対話的・応答的関係でおこなわれます

私たちが授業に臨むとき,この教材で,子どもたちにこんなことを身につけてほしい,ここを理解してほしいと思いながら,子どもたち一人ひとりの表情やしぐさ,息遣いまでふくめて心を動かし,発問や質問をおこなっていると思います。
授業の前には,教材研究が不可欠ですが,そのときも,子どもたち一人ひとりの顔を思い浮かべながら,教材研究をしていると思います。また,授業を構想する際にも,同じように子どもたち一人ひとりの顔を思い浮かべながら,発問を考えたり,授業のすすめ方を考えたりします。

授業は「生きもの」

授業は,教師から子どもたちへの一方的な伝達ではありません。
教材を仲立ちにして,子どもと教師がお互いにやりとりをし,そのことをとおして,教材に対する認識を深めたり,子ども理解を深めたりするものだと思います。
それは,多くの先生方が経験されていることではないでしょうか。
また,授業の中で,時には子どもたちの思いもよらない発言に驚かされ,そのことによって,さらに子どもたちのみならず教師も認識が深められたり,新たな発見が生まれたりすることも,多くの先生方が経験されていると思います。

「オンライン授業」の問題点

「オンライン授業」で,そのことが可能でしょうか。
「オンライン授業」にとりくんだ岐阜県高等学校教員の斉藤ひでみさんは,
「生徒側の反応をみると,NHKの教育番組やYouTubeの講義動画などと違い,見知った学校の先生が画面に登場することに喜びを感じてくれたようです。クラスメイトと一緒に受けられる楽しさもあり,意欲的に参加してくれました」
「生徒は,新学期が始まっても新しいクラスメイトや教師に会えず,電話やメールで学校とやりとりを行う程度でした。そんな中で1カ月分の課題を出され,自律的に学ぶことを求められても,難しいことは分かります。オンライン授業で学校の先生,友だちと定期的に学ぶ時間を共有できることは,学習へのモチベーションを高め,つながりを実感できるという,大きな意義があるように思います」
と評価しながらも,
「生徒―教師の双方向的な学びを行うことが,思った以上に困難なことです。少人数ならまだしも,通常の倍以上の生徒を一度に教えるとなると,生徒たちとの双方向のやり取りは難しいのが現状です。何人もが同時に話し始めると収拾がつきませんし,生徒全員が画像を出すと授業が見づらくなってしまいます」
「私達教師も,生徒や保護者も,『オンライン授業を始めれば全て解決する』というような,過度な期待は禁物でしょう。現時点でできるのは『自宅学習課題の補完』程度のものであり,緊急事態の中で『ベストではないがベターな選択肢』として,捉えておくのが妥当だと思います」プレジデントオンライン2020年5/14(木) 11:15配信)と述べています。

■「登校日の対応と学習課題」についてはこちら■

双方向的な学びは困難

動画を一方的に流す場合は,当然のことながら対話的・応答的関係を取り結ぶことはできません。しかし,上記のように,子どもとのやりとりができる「オンライン授業」の場合でも,双方向的な学びをおこなうことが困難とされているのです。

子どもたちは集団として学びあいます

授業での対話的・応答的関係は,教師と子どもたちとの間だけで展開されるものではありません。
授業は学級という集団でおこなわれます。その中で,子どもたちどうしの対話的・応答的関係が形づくられます。
集団で学ぶからこそ,たとえば,ある子が発言したときに,
「それは,わたしの考えと少し違うような気がする」
また,「私の考えとよく似ている」
と,ほかの子が心を動かします。
そして,そのことを発言します。
そのことの積み上げによって,授業に広がりと深まりが出てくるのは,これも多くの先生方が経験されていることと思います。
「オンライン授業」では,それが可能でしょうか。

授業記録から考える…

小学校の文学教育の実際の授業記録をもとに考えたいと思います。
次にあげるのは,『明日を拓く』(2014年・部落問題研究所)に掲載されている河瀨哲也氏の授業記録です。
その授業記録から,それぞれの発問の意味について述べられている部分を削除し,本文には河瀨と書かれている部分をT,子どもの固有名詞(仮名)で書かれている部分をCとして,リライトしたものです。

教材は「ごんぎつね」。
小学校の教員ならば,ほとんどの先生がご存じの,全国でも数多の実践がおこなわれてきた教材です。

(以下 授業記録)——————
(本文)そのとき兵十は,ふと顔をあげました。と,きつねが家のなかへはいったではありませんか。
こないだ,うなぎをぬすみやがったあのごんぎつねめが,またいたずらをしにきたな。
「ようし」
兵十は立ち上がって,納屋にかけてある火なわ銃をとって,火薬をつめました。そして,足音をしのばせて近寄って,いま戸口を出ようとするごんをドンと,うちました。ごんは,ばったりと,たおれました。(子どもの音読)

T ここは,どう読めばいいのだったかな? だれの視角から書かれているのかな。
C 一斉に「兵十」

T どうして?
C 「ふと顔をあげました。と,きつねが家のなかへはいったではありませんか。」というところからわかります。ごんが自分で「はいったではありませんか。」とは言わないから。兵十の方から見ていることがわかるから。

T (みんなの納得するのを確かめて)そうだね。それでは,ここでわかること,思うことをどうぞ。
C (すわったまま)ここは,かなんとこや。言うのもかなん…。(ほかの子どもも「そうや」「そうや」と口々に言いだす)

T そうやね。だけど,ここをしっかり読まないと。いやなことだけど,そのままにしておいて…
C(前のCと同じ子) (私の言葉がおわらないうちに)「あかん。」というんやろ。わかってるがな。先生。ぼくから言うわ。「なんで,兵十は,鉄ぽうをうつんや。」「こんなにやさしいごんを殺すのや。」とぼくはいいたいのやけど,ここでわかることは,兵十は,やさしいごんのことをちっとも知らんのやからしょうがない。そやけど,ぼくは,腹が立ってくる…。

T上手に言えたね。他の人は?
C 兵十は,ごんのことを,「うなぎをぬすみやがったあのごんぎつねめ」としか思っていないことがわかるので,兵十は,ごんのやさしいのを知らないことがわかるので,火なわ銃をうつのもわかるけど…。

T それで… 自分の思うことを正直に言ったら。
C(前のCと同じ子)それで,「私は,ごんは悪いきつねじゃないよ。」と大きな声で教えてやりたいと思った。
C 「あのごんぎつねめが,またいたずらしにきたな。」というところで,ごんぎつねめの「め」とか「また」とか書いてあるので,兵十は,ものすごくごんのことをにくんでいると思う。
C そやからな,「ようし。」いうて,絶対,にがさへん。絶対,うち殺したると思っている兵十や,と思う。

T そうやろね。それで兵十は…
C 立ち上がって,火なわ銃をとって,火薬をつめて,足音をしのばせていき,戸口を出ようとするごんをドンとうった。

T その時の兵十の顔はどんな顔やったやろ?
C こわい顔
C 目がするどい。
C ぜったい命中させるぞ,という真剣な顔

T そうやろな。ところが,その時,みんなから見ると…
C ごん,あぶない。早くにげろ。
C 兵十,うったらあかん。
C 誰か出てきて,やめさせてという気持ちになってくる。

T ところが,兵十はドンと,うってしまった。ごんは,ばったりと,たおれた。兵十をみんなからみれば…
C 腹立つわ。
C 憎たらしい。うらむで,もう。という気持ち。
C ざんこく兵十や,と思う。

T 兵十にしてみたら,どうなの?
C しょうがない,わなぁ。
C そやから,ぼくらはかなんのや。(そうや,そうや。とうなずく子どもたち)
——————(以上授業記録終)

この授業記録を読めば,教師と子どもとの,また子どもたちどうしの見事な応答関係によって,「ごんぎつね」の文学的形象が,これもまた見事に読み深められていることがよくわかると思います。
こうした授業は「オンライン授業」では不可能だと考えますが,いかがでしょうか。

教室は子どもたちと教師がつくりあげる
    そこにしかない文化的空間です

先の授業記録を読めば,この教室に漂う人間的な空気感や子どもたちの表情や息遣い,教師の表情までもが浮かんでくるのではないでしょうか。そして,この授業にとどまらず,教師と子どもたちとの日常的なつながり,子どもたちどうしのつながりまで見えてくると思いませんか。
「ああ,いい学級だな」とだれもが思うのではないでしょうか。

この文学の授業に限らず,授業というのは,教材をめぐる教師と子どもの双方向の応答関係をとおして,教師と子どもたちが,あるいは,教師が子どもたちと,ともに真理・真実を追究する過程といえるのではないでしょうか。
そのことをとおして,子どもたちは,自然認識,社会認識,人間認識を深め,人格形成をすすめていきます。
先にも述べたように,教師も時には子どもたちの思いもよらない発言に驚かされ,そのことによって,教材に対する認識を深めたり,子ども理解を深めたりするものです。

授業は子どもの可能性を引き出し発展させる過程

教材とは,とりもなおさず文化財です。
「提言」にも引用しましたが,
「授業は,文化財の習得をとおして生徒の諸能力が発達していく過程であり,教材を媒介とする教師の働きかけ(発問とか教示)や生徒相互の影響のもとで生徒が自己発達をとげていく過程である。また,これを教師の側からみれば,文化遺産である教材を使って子どものなかにある可能性を引き出し発展させる過程ということができる」(『現代教育学の基礎知識』1979年 有斐閣ブックス)
これが,授業の本質ではないでしょうか。

授業の中でこそ発揮される教師の専門性

実際の授業場面で教師は,たとえば一つの発問をおこなったときの,子どもたち一人ひとりの表情やしぐさ,息遣いまで見逃さず,おそらくこのような発言をしてくれるだろうなと瞬時に判断して子どもを指名します。
その子の発言に,おそらくこの子は少し違う意見を発言するだろう,あるいはよく似た意見を発言するだろうと判断して,子どもたちの意見をつなげ,広げ,授業の深まりをつくろうとします。
また,その発問に首をかしげている子や「うん?」という表情をしている子がいれば,これも瞬時に判断して発問を変更したり,砕いたりして授業をすすめます。

これこそが教師の専門性の発揮であり,こうしたやりとりが形づくる空間が,まさにそこにしかない文化的空間なのではないでしょうか。
「オンライン授業」でこのような文化的空間を形づくることができるでしょうか。大変困難だといわなければなりません。

おわりに

冒頭にも述べたように,「オンライン授業」をすべからく否定するものではありません。情報通信技術の進歩は重要であり,それは,人類の文化の前進のために使われることが求められます。
教育においても,情報通信技術の進歩をうまく使って,よりわかりやすい授業をつくったり,日常の教育活動をすすめたりすることは必要だと考えます。
しかし,「オンライン授業」万能論に近い論調が広がっていることは危険だと考えます。
それは,授業の持つ本質をゆがめることになりかねず,使いようによっては,本来集団で学びあうべきである学習活動を,学習を個別化して,子どもどうしを切り離してしまう危険があると考えるからです。
以上,問題提起しました。いかがでしょうか。ごいっしょに考えあうことができればと思います。

【追加提言3】小学6年 中学3年の教育課程について

  

【追加提言】登校日の対応と学習課題

休校中の登校日の対応と休校中の学習課題について

2020年5月13日 大阪教育文化センター事務局
5月18日 算数プリント類案内追加
5月22日 数学プリント類追加

 全国一律休校要請とそれに続く緊急事態宣言にともなう休校措置が約3か月に及ぼうとしています。5月1日に文部科学省が「新型コロナウイルス感染症対策としての学校の臨時休業に係る学校運営上の工夫について(通知)」を出したこともあり、各地で休業期間中の登校日が設定され、分散登校が始まっています。
 また、これまでもおこなわれていましたが、この分散登校と一体に、家庭学習の課題を子どもたちに渡して、学習を促すとりくみもすすめられています。
 この休校中の登校日をどうするか、休校中の学習課題について、どう考えればよいか、先生方もいろいろ考えておられることと思います。私たち教文センターは、先に出した「提言」※(4月27日)をふまえ、以下のように考えます。ごいっしょに考えあいたいと思います。

※■【提言】学校再開に向けた いまだかつてないとりくみを■

§1.休校中の登校日について

登校日は子どもたちとの最初の出会い

 分散登校という変則的な登校日とならざるを得ませんが、しかし、それが子どもたちとの今年度の最初の出会いであることは間違いありません。この休校期間中、子どもたちはさまざまな過ごし方をしてきたと思いますが、「提言」にも書いたように、大人以上の寂しさと、不安を抱いて過ごしてきたに違いありません。
 まずは、その子どもたちをやわらかく受け止めたいですね。新任の先生方にとっては、文字通り初めての子どもたちとの出会いです。また、新しい学校に赴任されてきた先生方にとっても、初めての子どもたちとの出会いです。
 その学校に何年か勤務されている先生方は、持ち上がりの場合は、昨年度担任した子どもたちがいます。そうでない場合でも、これまで担任した子どもの兄弟や児童会・生徒会や委員会活動、部活動で見知った子どもたちがいると思います。
 しかし、どの場合でも、子どもたちとの新しい出会いです。子どもたち一人ひとりとの出会いを大切にしたいですね。

子どもの様子をみるチャンス

 休校中の登校日は、子どもの様子を把握するチャンスです。地域によれば、登校日におこなうこととして、たとえば、①健康観察、②課題の確認、③体を動かすなどが提起されているところもあるでしょう。その場合でも、機械的にそれをおこなうことは避けたいと思います。
 健康観察の場合でも、チェックシートに書き入れるという対応ではなく、子どもの様子をしっかり見て取ることが大切だと思います。休校前の子どもを知っていれば、登校したときに「この子、少しやせたみたい」と感じたら、家庭の事情から昼食を満足に食べることができていなかったのではないだろうか、あるいは夜にはコンビニ弁当ばかりで過ごしていたのではないだろうか、と心を働かせることが大切でしょう。

子どもの気持ちを思いやり 向きあう

 また、少し顔色が悪い子もいるかもしれません。子どもが家にずっといるストレスで、父母・保護者も子どもとの関係がよくない状態にある場合、子どもの居場所であるべき家庭が、子どもにとって生きづらい場になっており、そのことが原因となって、健康状態に問題が生まれている場合もあるかもしれません。
 
 登校日に子どもと対面することによって、子どもに声をかけて励まし、そうした子どもの実態を把握し、必要な手立てを打てる場合も生まれてくるのではないでしょうか。
 このように子どもを見て取り、子どもとの言葉のやりとりもとおして、この子は休校期間、どんな生活をしてきたのだろう、という想像力を思いきり働かせて、子どもに向き合いたいものです。

職員室で語りあえば 課題も見えてくる

 そして、職員室に帰ったら、「あなたのクラスの子ども、どうだった?」と同僚と様子を語り合ってみたらどうでしょう。その語り合いをとおして、課題を抱える子どもに対する手立てが見えてくる場合もあるのではないでしょうか。そうすれば、課題を一人で抱え込まなくてもすむと思います。
 学習課題の確認についても、休校期間に家庭で、どんなふうに勉強してきたのか、いろいろな要因で家庭学習がうまくすすまなかった子どもが、そのことを語れるような空気のもとで、おこないたいと思います。

新しい先生はまずは自己紹介から楽しく

 新任の先生や新しく赴任された先生は、「君たちにあえて、本当にうれしい」という気持ちをうんとふくらませて、自分の自己紹介を楽しくやりたいし、子どもの自己紹介とキャッチボールするようにできればいいですね。
 そんなことをとおして、子どもたちも「やっぱり学校っていいな」と思えるような登校日になるよう、工夫しませんか?

交換日記などで伝えあい

 また、可能であれば、子どもたちと日記をやりとりすることもいいと思います。「先生は、みなさんと心と心をつなぎたい。だから、あなたが、おうちでどんなふうに過ごしたのか、どんなことを考えていたのか、先生はとっても知りたいと思います」と語って、「次の登校日にもってきてね」と伝えましょう。
 そうすれば、子どもたちと双方向のやりとりができ、子どもは先生と学校をイメージしながら、先生は子どものくらしをイメージしながら、毎日を過ごすことができ、子どもも先生も次の登校日が楽しみになるのではないでしょうか。

登校日は子どもとの出会いを大切にする日

 そんなふうにして、登校日を子どもとの出会いを大切にする日、子どもを発見する日とすることができれば、学校が再開したときには、フッと力を抜いて子どもたちに出会える新しい世界からの出発ができるのではないでしょうか。
 とはいえ、学校が再開されたとしても、これまでと同じように、すべての子どもたちが登校して学校生活が始められるかどうか、まだはっきりしたことはわかりません。
 でも、どのようなスタートになったとしても、先生は、これまで抱いてきた「子どもに会いたい」という思いをうんとふくらませ、子どもたちの「学校に行きたい。先生と会いたい」という思いと重ね合わせることができれば、必ず新しい出発ができると思います。

§2.休校中の学習課題について

家庭学習は教育の専門家としての判断で

 休校中であっても、子どもたちに学習課題を与えることは必要なことです。でも、何をどう与えるかについては、よく考える必要があると思います。
 最近のTVで、学校から課題を与えられた子のお母さんが、「家で教えるのは難しい」と語っている姿が放映されていました。確かにそのとおりで、学校がそのつもりはなくても、結果として、家庭に学校の役割を押しつけてしまうことは避けなければなりません。
 ですから、子どもたちの家庭での学習のために、何をどう与えるかについては、教育の専門家としての判断が求められます。
 2つのことを考えておいたらどうでしょうか。

課題は 前学年の復習を中心に

 第1は、課題については、前の学年の復習を中心にし、前の学年の学習で、「ここに力を入れておけば、新しい学年での学習をすすめるうえで役に立つ」という内容を精選することです。
 小学校の算数を例にとると、一番わかりやすい例は、新3年生の場合、2年生でのかけ算をしっかりやっておくことです。
 3年生の算数では新しくわり算を勉強します。わり算の学習のためには、1あたり×いくつ分=全体の量というかけ算の意味が分かり(これは等分徐、包含徐を理解するために大切です)九九が自在にあやつれることが重要な条件となります。

前学年で扱った教材の音読や漢字復習

 また、国語では、読むことと書くことの基礎をしっかりやっておくことではないかと思います。国語の教科書の音読は日常の家庭学習としても多くの先生方が宿題という形で出しておられるのではないでしょうか。
 前の学年で習った優れた文学作品や説明文をよどみなく読むことができるように音読の練習をやることは、新しく始まる学年での学習にきっと役立つと思います。
 書くことでは、漢字の復習をやることがいいのではないかと思います。漢字は前の学年で習った漢字だけでなく、たとえば4年生ならば、2年生の漢字から復習しておくのもいいと思います。なぜならば、2年生でも「曜」や「顔」などの18画という画数の多い漢字を習っていますが、そのときには覚えきれなかったということも考えられるからです。

 このような課題を与えれば、父母・保護者に負担をかけることなく、子どもたちが自分の力でとりくむことができるのではないでしょうか。

子ども・保護者へのメッセージとともに課題を

 第2は、子どもたちが意欲をもってとりくむことができる工夫と、父母・保護者が負担に感じることのないような工夫が必要だと思います。
 たとえば、課題を出す場合でも、「〇〇をいつまでにやってきなさい」という形ではなく、子どもと父母・保護者へのメッセージといっしょに課題を渡すということも考えられるでしょう。
 そのメッセージでは、「今日の課題は前の学年での復習だけれど、これにしっかりとりくむことによって、新しい学年でのこの学習にきっと役立つよ」ということが子どもに伝わるようにしたいものです。
 また、父母・保護者にも、「今この課題をやる意味は、ここにあります。だから、子どもの学習を見守ってあげてください。お母さんが無理に教えようとしないでいいですよ。もし学習につまずきがあれば、それは学校が始まってから、子どもの実態をよくみて、私の方でしっかりと教えたいと思います」ということが伝わるようにしたいものです。
 
 そんな中身の学級通信といっしょに子どもに課題を渡せば、家庭学習のとりくみ方が変わってくるのではないでしょうか。いろいろな工夫ができると思います。ぜひ、とりくんでみてください。

【追加1】仮説社「たのしい授業5月号」から「新型コロナウィルスって?」という動画があります。授業にも使えます。15分

以下のサイトにこの動画のパワーポイント版、PDF版、解説資料、ワークシートなどがダウンロードできるようになっています。

■解説資料等のダウンロード■

【追加2】何森真人さん(数教協)より、休校中の分散登校、家庭学習に使えるプリントの提供。「ウチで学ぼう!算数」のデータ集(PDFファイル)です。「家庭で」「学校でいつもより短い時間で」「学校と家庭学習を合わせて」などに利用できます。

3年算数:たし算の筆算(PDF)

■算数プリントダウンロードはこちら■(さんすうしぃ!!)

①小2:たし算の筆算 ②小2:ひき算の筆算
③小3:たし算の筆算 ④小3:ひき算の筆算
⑤小3:あなあきかけ算(わり算の前に)
⑥小3:かけ算の筆算の前に
⑦小34:わり算の筆算プリント作成シート
⑧小4:わり算の筆算(÷1ケタ)
⑨小5:小数のかけ算 ⑩小6:分数のかけ算

【追加3】中学2年数学プリントを追加。中3の復習用として,また中2の単元のまとめとして。基礎計算プリント=くりあがり・くりさがりのある問題を三角形や平行線の角度の問題として追加しています。(zipファイル)

中学2年数学復習プリント

【追加4】中学3年数学プリントを追加。中3の演習用として。①基礎計算プリント=くりあがり・くりさがりのある問題を円周角の問題として ②式の展開・因数分解 ③平方根計算 ④2次方程式 ⑤円周角72題 ⑥テスト問題を追加しています。(zipファイル)

■中学3年数学プリント■

【追加提言2】「オンライン授業」について

【追加提言3】小学6年 中学3年の教育課程について

  

【提言】学校再開に向けた、いまだかつてないとりくみを

いまだかつてない事態には,いまだかつてないとりくみを
―子どもたちにとって大事なことを絞り込んで,教育内容の大胆な削減を―

2020年4月27日 大阪教育文化センター事務局
4月29日更新 5月8日算数 6月10日要約と補足追加

■5月26日【追加提言3】小学6年 中学3年の教育課程について■

大阪教育文化センターだより145号(6月9日)
■学校再開への4つの提言 要約と補足■

§0.はじめに

 新型コロナウイルスにかかわる休校期間は,きわめて長期にわたるものであり,子どもたちも,父母・保護者のみなさんも,先生方も,いまだかつて経験したことのない事態となっています。いつ学校が再開できるのだろうか,という不安とともに,学校再開後の教育活動はどうなるのだろうという心配もあります。

子どもにとって何が必要か

 このような,いまだかつて経験したことのない事態に対して求められる教育活動は,従来の枠組みにとらわれていては,対応できません。従来の枠組みを超えた「いまだかつてないとりくみ」が必要です。その際,もっとも大事なことは,子どもにとって何が必要かであり,そのことを中心に据えてとりくむことが何としても求められると考えます。

学習指導要領に子どもを合わせない

 そのためには,新学習指導要領にとらわれるのではなく,子どものための教育課程づくりこそが重要です。マスコミ報道では,もう今から「夏休みをなくす」と言っている自治体の長も生まれてきているようですが,とんでもないことです。そんなことをすれば,子どもを追い詰めてしまうだけです。学習指導要領に子どもを合わせるのではなく,子どものための教育をどうつくりあげるかが,もっとも大切にしなければなりません。
 教職員組合は,新学習指導要領を押しつけないことを教育行政に求めましょう。そして,同時並行で学校でのとりくみをすすめましょう。

単純に行事を削減するのではなく

 学校でのとりくみでは,教科指導においては,その学年の子どもたちにとって,本当に大事な中身は何かを考え抜き,それに絞り込んで教えること,教科外活動においては,単純に行事を削減することなく,行事もふくめ,子どもの成長・発達にとって大事な活動にしっかりとりくむことが必要だと考えます。
 その立場から,以下,いくつか提案したいと思います。各学校での積極的な検討を心からお願いします。

■「戸惑いと不安と恐れのなかに希望を見いだす」■(参考)

【追加提言】休校中の登校日対応と学習課題についてはコチラ

【内容】
§1.いつにもまして,子どもとの出会いを大切に―子どもを丸ごと受け止めよう
§2.今こそ教育の専門家としての教師の力の発揮を
(1)子どもに心を寄せ,あたたかいまなざしで,子どものケアを
(2)教科学習では,大胆に単元を削減し,子どもの学習負担を軽減する
(3)教科外活動では安易に行事の削減などはおこなわない
(4)学年会や教科部会,生活指導部会,児童会・生徒会担当者会議で縦と横のつながりをつくって
§3.具体的なとりくみ
(1)9月から授業再開を想定,受験教科の範囲削減を文科省,都道府県教委へ要望
(2)9月再開を想定した計画  [1]小学校 [2]中学・高校の場合
§4.父母・保護者の理解と合意を
§5.教職員の合意づくりを
§6.今こそ,校長先生はリーダーシップを発揮して
§7.いわゆる「ネット授業」について
§8.おわりに

§1.いつにもまして 子どもとの出会いを大切に―子どもを丸ごと受け止めよう

 安倍首相による全国一律休校要請によって,子どもも教師も2019年度は学年末にふさわしい締めくくりができない状態におかれました。それに引き続く「緊急事態宣言」によって,2020年度の始まりも,新しい年度の始まりにふさわしい出会いができない状態におかれています。

子どもはどんな思いで過ごしているのか

 子どもたちはこの長い休みの間,どのように過ごしているのか,どのように過ごしてきたのか,家庭訪問もなかなかできないもとで,実態そのものもなかなか把握できていない状況におかれているのではないでしょうか。貧困家庭の子どもは,給食もないなかで,ちゃんと食べることができていたのか,ほとんど家の中で過ごしていた子は,大きなフラストレーションをため込んでいたのではないか,長期にわたる休校で,登校拒否・不登校が増えるのではないか,など先生方も不安がいっぱいだと思います。

「よく来たね」と子どもをまるごと受け止めたい

 5月7日(※)に子どもたちと出会えるかどうか,なお不確定要素をもっていますが,こんな状況だからこそ,いつにもまして,子どもたちとの出会いを大切にしたいものです。(※大阪府は5月7,8日も休校と決めたようです 4月27日夕方現在)

 「よく学校へ来たね」という思いを全面に,子どもを丸ごと受け止めたい。子どもの表現を全力を込めて受け止めたい。今年だからこそ,こんなときだからこその「学級びらき」を工夫したいですね。ともすれば,大幅に削減された授業時数のもとで,早く教科の授業を始めなければという気持ちに駆り立てられるのは無理のないことですが,ちょっと立ち止まって,こんなときだからこそ,焦らずに,あわてずに,教室が子どもたちの居場所となるように,教師と子どものあたたかい関係を築けるよう,心を砕いてみましょう。そして,子どもたちどうしのあたたかい関係を築けるよう,子どもたちの心と心をつなぐことを大切にしたいですね。

§2.今こそ教育の専門家としての教師の力の発揮を

 私たち教員は,「私は教育の専門家だ」といつも意識して教育活動をすすめているわけではありません。急に「専門家としての教師」と言われて,戸惑う先生方もいらっしゃるかもしれません。

教師は子どものことを考えて教育活動を計画している

 でも,ちょっと考えてみてください。たとえば,先生方が授業を構想するときには,「この単元で一番大切にしなければならないことは何だろう,この文学教材では,子どもたちにこんなことを読み取らせたいな」と子どもの顔を思い浮かべながら,考えているのではありませんか。また,こんな発問をしたら,子どもたちが活発に発言できる授業になるのではないか,と考えているのではありませんか。

 教科外活動では,運動会で子どもたちが力を合わせてとりくめるには,どんなことが必要だろうか,子どもたちが感動する文化祭をつくりあげたい,子どもたちの笑顔がはじけるお楽しみ会にしたい,などと考えてとりくんでいるはずです。

 それが,教員の専門性に他なりません。その専門性を発揮して教員は教育活動にとりくんでいるのです。そのことが教員は教育の専門家であることを示しています。こんなときだからこそ,私たちのもつ専門家としての力を大いに発揮しましょう。
 では,その力をどのように発揮すればよいのでしょう。次から考えていきたいと思います。

(1)子どもに心を寄せ あたたかいまなざしで 子どものケアを

 休校中,子どもたちは,さまざまな過ごし方をしたことでしょう。多くの子どもたちは,友だちにも会えず,いっしょに遊ぶこともできず,仕方がないので,スマホやゲームで寂しさを紛らわせざるをえない毎日だったのではないでしょうか。父母・保護者のみなさんも,自分自身の仕事の悩みを抱えながらの子どもへの対応で,おそらく疲れておられることと思います。

不安の中でも子どもたちは頑張っている

 何よりこのコロナ禍で,大人もふくめてですが,「人とかかわること=危ない」という風潮がつくられていることが大変気になります。何気ない会話をしたり,親しい人と食事をしたりする,普段なら当たり前のことを控えなければならない状況は,大人でさえ追い詰めていくものです。

 ましてや子どもの場合,大人以上に寂しいし,怖いし,不安なのだろうと思います。普段なら,何か心配事があったとしても,友だちと遊んだりしていると,その心配が吹っ飛んでいくこともありますが,長い時間家で一人で過ごしていると不安や心配事が増大してしまいます。でも,子どもたちはがんばっているのです。

学校再開後は あたたかいまなざしで

 子どもが成長・発達するうえで,人に触れ合うこと,そのときに漂う雰囲気や空気感はとても大切なものです。この休校中も,先生方は,そうした子どもたちに思いをはせ,できる限りのとりくみをすすめられたことと思います。

 学校が再開されたら,中には「荒れ」る子どもも出てくるかもしれません。登校しぶりの子も生まれてくるかもしれません。余裕をもって,子どもを見ることが求められると思います。そして,何よりもあたたかいまなざしを注ぎましょう。それも教師の専門性の重要な部分です。どの子も,何らかの形で傷ついているのです。その子どもたちに心を寄せ,しっかりケアしていきましょう。

(2)教科学習では大胆に単元を削減し 子どもの学習負担を軽減する

 教科学習では,その学年の子どもたちに本当に身につけさせたい力とは何か,考え抜きましょう。そして教科書を読み,子どもたちに「これだけは」という単元や教材を選りすぐりましょう。そうすれば,逆に,これは削除しよう,軽く扱おう,という単元や教材が見えてきます。そういう単元や教材は,思い切って大胆に削減しましょう。

次の学年で教えることも視野に

 また,次の学年で力を入れて教えてもらおうという単元や教材がでてきます。それは,次の学年でしっかり指導してもらうようにしましょう。6年生の場合は,特に教科としての「外国語」などは,中学でしっかり指導してもらうこととし,小学校では,「英語嫌いをつくらない」を目標にとりくみましょう。
 そうして,選りすぐった単元と教材で,今年度の教育計画を組み立ててみましょう。どのような計画になるかは,後に具体的に例示したいと思います。

そもそも授業時数の確保が必要では?と思う方はコチラを

(3)教科外活動では安易に行事の削減などはおこなわない

 子どもたちは,教科教育だけでなく,教科外の活動をとおしても大きく成長します。たとえば,運動会や遠足などの学校行事をとおして,全力をあげることの大切さや,力を合わせることの大切さ,自分たちで考えることの大切さなどを,実際のとりくみをとおして学びます。一つの行事を終えたら,子どもたちが見違えるように成長した姿を見せたという経験は,多くの先生方がもっておられると思います。

行事等は「総合」に位置づける

 だから,「授業時数確保」などという口実で,学校行事などを「初めに削減ありき」としないことが大切です。
 まずは,学校で大切にしてきた自治活動,自主的活動,学校行事を選りすぐりましょう。それを特別活動はもとより「総合的な学習の時間」に位置付けること,教科との関連を持たせることもふくめて,どのように時間をつくりだすかについて,知恵を絞りましょう。

 「総合的な学習の時間」について,学習指導要領では,「指導計画の作成と内容の取扱い」で,「教科等の枠を超えた横断的・総合的な学習や児童の興味・関心等に基づく学習を行う」あるいは「他者と協働して課題を解決しようとする学習活動」「グループ学習や異年齢集団による学習などの多様な学習形態」などと述べられています。これを活用すれば,教科外活動を「総合的な学習の時間」に位置付けてすすめることが可能です。大いに工夫したいものです。

(4)学年会や教科部会 生活指導部会 児童会・生徒会担当者会議で縦と横のつながりをつくって

 今述べてきたことを,まず一人で考えることも大切です。でも一人だけよりも,まわりの先生方といっしょにとりくめたら,もっといいですね。ですから,上述したことを学年教師集団でとりくんでみましょう。

学習指導要領通りでは子どもも先生もパンク

 ただでさえ,新学習指導要領は究極の詰め込みとなっているのに,そのうえ,削減された授業時数を何の工夫もせずに指導書に書いてある時間通りそのまま上乗せなどすると,子どもの学習負担は極限を超え,先生方の働き方も極限を超え,子どもも先生方もパンクしてしまうことは,だれが考えてもはっきりしているのではないでしょうか。

 だからこそ,学年会で「子どもにとって大事なことを絞り込んで教えましょう」と話し合えば,一致点が見いだせるのではないでしょうか。これができれば,しっかりとした横の連携をつくることができます。

 

教科部会で縦の連携 学校運営組織をフル活用

 また,教科部会で話し合うことも大切になってきます。たとえば,算数では,新学習指導要領では2年生で3分の1を教えることになっていますが,そもそも無理な話です。だから,それは,2年生ではなく3年生で教えましょう,また,割合も4年生から出てきますが,それは5年生でしっかりやりましょう,ということになれば,縦の連携をつくることができることになります。

 教科外学習については,子どもたちの成長をはかることのできる教育活動について,生活指導部会や児童会・生徒会担当者会議などで教師集団として考えることができると思います。
 このように,学校運営組織をフルに使って,教育課程づくりにとりくむことが必要なのではないでしょうか。

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子どもと教育が大切にされる政治と世の中の実現を

子どもと教育が大切にされる政治と世の中の実現を
―衆議院選挙公示にあたって―

2017年10月10日
大阪教育文化センター事務局長 山口 隆

 第48回衆議院議員総選挙が本日公示され、10月22日に投開票がおこなわれます。

 これまで、選挙にかかわって大阪教育文化センターが意見表明することは、ほとんどありませんでしたが、今回は、自民党がその公約で教育問題を掲げていることから、ひと言コメントします。

 自民党公約は、「未来を担う子供たちに、“保育・教育の無償化”を実現します。」として、「幼児教育無償化を一気に加速します。2020年度までに、3歳から5歳までのすべての子供たちの幼稚園・保育園の費用を無償化します」「高等教育の無償化を図ります。このため、必要な生活費をまかなう給付型奨学金や授業料減免措置を大幅に増やします」「これらの施策を実行するために、消費税10%時の増収分について…子育て世代への投資を集中する」と述べています。そして「憲法改正を目指します」と明記し、自衛隊の明記とともに教育の無償化をあげ、教育無償化を改憲と結びつけています。

 そもそも安倍内閣と自民党は安倍「教育再生」の名のもとに、教科書改悪、道徳の教科化、教育委員会制度改悪、義務教育学校の設置による小学校段階からの学校複線化などをすすめ、いま新学習指導要領による「戦争する国」を支える人づくり、財界の利潤追求に役立つ人材育成をねらい、教育改悪をすすめています。教育条件整備では、少人数学級実現を求める国民の願いに背を向けて、35人学級は小学校1・2年生どまり、給付制奨学金も、高まる世論に押されてほんの一部分実施したものの、大半は有利子の貸与制奨学金というのが現状です。

 こうした教育改悪をすすめ、条件整備を放置しておきながら、選挙目当てに教育の無償化を口にするなど、許されるものではありません。しかもその財源を最悪の不公平税制である消費税に求めるなど邪道中の邪道といわなければなりません。

 さらに許せないのは、これを憲法改悪の口実にしていることです。自民党の改憲の本丸は憲法9条に自衛隊を明記することによって9条2項を空文化し、自衛隊が大手を振って海外で武力行使できるようにするところにあります。それを覆い隠し、自民党の補完勢力である維新の会が主張する改憲による教育無償化をとりこむなど、まさに党利党略そのものです。

 大阪教育文化センターは、このようなよこしまな動きを許さず、子どもと教育が大切にされる政治と世の中の実現を強く求めるものです。

  

「教え子を再び戦場に送るな」採択50周年を迎えて

この文章は「おおさかの子どもと教育」30号(2001年1月発行)に掲載されたものです。

〔特別寄稿〕

「教え子を再び戦場に送るな」採択50周年を迎えて

元大阪教職員組合中央執行委員長 東谷敏雄

「おおさかの子どもと教育」30号別冊 大阪教育文化センター10周年記念

2001.1.25

発行 大阪教育文化センター

(※注 原文は縦書きです。一字一句をていねいに校正された東谷さんの姿を思い、Webでも漢数字のまま掲載します。)

 今年は「教え子を再び戦場に送るな。」のスローガン決定五〇周年にあたります。

「おおさかの子どもと教育」三〇号に当時の様子を東谷先生が特別に寄稿して下さいました。多くの資料、証言を調べて書いて下さったことに感謝する次第です。

 人によって平和への願いや運動の仕方もさまざまだと思いますが、多くの方に読んでいただきたいと思い別冊にして発行いたしました。

大阪教育文化センター事務局長 大坪和夫


-大阪教育文化センター十周年記念特別寄稿-

「教え子を再び戦場に送るな」 採択五十周年を迎えて

元大阪教職員組合中央執行委員長 東谷敏雄

一 若き人々への証言として

 「夕食も議場内で握り飯を片手に討議を続行、午後九時半、議題のすべてを終了し、内外情勢の逼迫する中に日教組当面の諸方針をうちたてた」朝鮮戦争のさ中、一九五一年一月二十四、五日の両日開かれた日教組第十八回中央委員会を報じた機関紙「教育新聞」の記事である。

 この中央委員会が「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンと決議を採択し、教職員の反戦・平和の決意を内外に示した。二十一世紀を迎えたこの一月がその五十周年に当たる。

 こんにち教育労働戦線は大きく分かれているが、そのうちの全教と日教組という二つの大きな組織が、いまなおこのスローガンを運動の原点を示すものとして掲げている。一つの全国的な労働組合が路線の問題をめぐって大きく分かれたのちにも基本的なスローガンを共有しているという例は極めて珍しいのではないか。

 私は当時、日教組中央執行委員であったので、このスローガンと決議の提案者側にいた。当時の中央執行委員長として日教組の平和運動の先頭に立っていた岡三郎をはじめとして同僚の多くが不帰の客となっているこんにち、なお命を長らえている者として、この機会に現役の教職員諸君に、当時のことを私なりに証言しておきたいと思い筆を執った.

 半世紀前の朝鮮戦争をめぐっての緊迫した内外の情勢をいま思い起こすとき、昨年六月の南北朝鮮首脳会談で切り開かれた平和・和解路線への歴史的転換、それに続く十月の米・朝間の戦争関係公式終結を宣言する共同コミュニケの発表という新たな事態の展開に、限りない感慨を覚えている。

二 朝鮮戦争前夜に

 一九四九年七月四日、アメリカの独立記念日に当たってマッカーサーは、「日本は共産主義進出阻止の防壁」との声明を発表したが、いわゆる冷戦の深化に伴いGHQの対日占領政策の大きな転換が四九年頃から顕著になり、共産党や左翼労働運動などに対する規制と弾圧が強められるようになってきた。その象徴的な事件が下山事件、三鷹事件、松川事件という明らかに謀略を伴った弾圧である。

 それに続いて在日朝鮮人連盟など朝鮮人四団体が解散させられた。
またこの年の九月頃から翌五〇年二月にかけて、文部省へのGHQの指示を背景にした教職員に対する明らかなレッドパージが全国各地で強行され、その数は千百人前後(注①)に達している。

 年を越えた五〇年の一月一日、マッカーサーは年頭の辞で、日本国憲法は自己防衛の権利を否定してはいないと声明し、日本の再軍備を示唆した。一月三十一日には、米統合参謀本部ブラッドレー議長と陸海空三軍の首脳が「極東情勢検討」のため来日し、マッカーサーと軍事体制の強化について会談した。ついで二月十六日には李承晩韓国大統領が来日、マッカーサーと「反共策」で会談している。

 このような動きと並行して、対日講和問題がダレズ米国務省顧問のもとで四月から具体的な検討が進められ、五月八日に記者会見した吉田首相が「講和と米軍の基地問題につき米国などとの単独講和はすでにできている」と発言するまでになっていた。

 五月一日から三日間、香川県琴平町で開かれた日教組第七回定期大会は、平和運動の展開について、①民主主義諸権利の確保②軍事基地化反対③民族の独立④全面講和即時締結⑤平和教育の徹底を目標に掲げた。『日教組十年史』は、この決定を次のように評価している。

 「後に見られる平和四原則のごとき徹底した方針は原則づけられなかったにせよ、政府の単独講和コースが、占領軍の武力に支えられて強行されんとするとき、これだけの決定をするにもただならぬ決意と、五十万(組合員)の意思の統一が必要だったのである」

 この大会が開かれている五月三日、こともあろうに憲法記念日の声明でマッカーサーは、「共産党は侵略の手先」と非難、非合法化することを示唆した。この頃から朝鮮戦争の勃発に至る二ヵ月たらずの間に奇怪な事件が相次いだ。

 まず六月二日、警視庁はGHQと政府の方針で、東京都内の集会・デモを五日まで禁止すると発表し、その五日には、禁止措置を当分の間継続すると改めた。

 翌六日にマッカーサーは吉田首相宛の書簡で、共産党中央委員二十四人全員の公職追放を指令した。そして十六日、こんどは国家警察本部が全警察にデモ・集会の全面的禁止を指令し、十七日には文部省も、学生の政治集会・デモに参加することを禁止する通達を出した。

 このように一種の「戒厳令下」を思わせるような状況がつくられるなかの六月十八日、ジョンソン米国防長官、ブラッドレー統合参謀本部議長が来日し、マッカーサーと会談して、防衛態勢や日本基地維持の問題を検討した。続いて二十一日にはダレス顧問が再度来日、マッカーサーと対日講和条約の構想などについて会談し、翌日は吉田首相とも会談している。

三 朝鮮戦争下の試練

 緊迫した状況が続くなかで六月二十五日未明、朝鮮戦争が勃発した。この戦争が南北朝鮮のどちら側が起こしたかという問題は長く論争されており、また朝鮮の内戦として起こったものが、第二次世界大戦終結後最初の国際的戦争に発展したことは、南北朝鮮や関係した米・ソ・中が事前に予想していたかという問題など、なお研究されなければならない問題があると思われるが、当時のわれわれ日本人にとっては全く寝耳に水の突発事件であった。しかし、五〇年初頭のマッカーサーの年頭の辞から六月二十一日のダレス再来日に至る米政府と軍部、GHQの動きは、すべて朝鮮戦争の勃発を予め想定したものになっていると言わなければ説明がつかないのではないか。

 戦争勃発の翌日、マッカーサーは吉田首相宛書簡で、戦争についての「虚偽報道」を理由に共産党機関紙「アカハタ」の三十日間発行停止を指令し、七月十八日には無期限発行停止処分の追い打ちをかけた。これは「アカハタ」への弾圧を見せしめとして一切の言論を統制しようとしたもので、それは引き続いて強行されたGHQの「勧告」にもとづく各新聞社・通信社・放送協会など言論機関での問答無用のレッドパージとなってあらわれた。

 朝鮮戦争の勃発は、「日教組の平和運動にとって、重大な試練であった。……平和を口にすることが一つの闘争」(『日教組十年史』)になるという緊迫した状況のなかで七月八日、日教組は第十六回中央委員会を開き、多くの労働組合に先駆けて大要次のような「平和声明」を発表した。

 「われわれは一切の武力を放棄することを宣言した日本国憲法の大原則を確認し、日本の中立と戦争不介入の基本線を堅持し、如何なる国に対しても軍事基地の提供と人類を悲惨な運命に導く原爆使用とには断乎反対するとともに、全面講和締結促進への運動をあらたなる勇気と決意を以って展開するものである。このことは今日特に次代を担う青少年の幸福を守る日教組が行動を以って果たすべき喫緊の任務であることを確認し、徹底的に闘うことをここに声明する」

 この声明書は、日教組がやがて平和四原則の採択から「教え子を再び戦場に送るな」の合言葉を掲げるように平和運動を発展させていく過程の意義ある文書であった。

 中央委員会の三日後に日本労働組合総評議会(総評)の結成大会が開かれた。

 結成に至るまでにGHQの意向が大きく働いたこの大会は、「日本共産党の組合支配と暴力革命方針を排除し、自由にして民主的なる労働組合に依って労働戦線統一の巨大なる礎をすえた」と宣言するとともに、朝鮮戦争には「国連軍の行動を支持する」として、米軍を主力とした「国連軍」の戦争介入を是認した。

 私は七月二十日付「教育新聞」にこの大会の印象を次のように書いた。

 「現在(日教組の)組合員が最も関心をはらっている講和問題に対して態度不明確な者が相当数見受けられた。

 全逓(労組)の一代議員の如きは『全面講和』の『全面』を削除せよと、政府と全く同様の主張を述べた。また、『当面の行動綱領』の中に『強力な平和運動を展開し』を挿入せよとの日教組の主張が否決になったことは了解に苦しむところである」

 朝鮮戦争勃発に国連安保理事会はアメリカ提出の決議案を受けて、「侵略者・北朝鮮」に軍事制裁を加えることを決定した。米軍を軸として十六力国軍による「国連軍」が編成され、マッカーサーがその最高指令官に任命され、司令部が東京に設置された。

 在日米軍四個師団が根こそぎ朝鮮戦線に動員されることに関連して、マッカーサーは七月八日、吉田首相宛に書簡を送り、七万五千人の国家警察予備隊の創設と海上保安庁人員の八千人増員を指令した。政府は一カ月後の八月十日に警察予備隊令を公布し、八月二十三日には早々と第一陣の約七千人が入隊した。突然の指令とその実施は、われわれに日本の再軍備が現実のものになる危険性を十分に思わせるものであった。

 このような時期に合わすように八月二十七日、第二次アメリカ教育使節団が来日し、「極東において共産主義に対抗する最大の武器の一つは、日本の啓発された選挙民である」という一節をふくむ報告書をマッカーサーに提出し、「民主教育の反共的役割」を示唆した。

 これを直ちに受けるように吉田首相は十月、今後の文教の柱に「純正にして強固な愛国心の再興」を掲げると声明し、また朝鮮戦争の直前に文相となった天野貞祐は十月十七日、「学校における『文化の日』其の他国民の祝日の行事について」談話を発表し、学校の祝日行事に国旗を掲揚し「君が代」を斉唱することを奨めた。文部省は文相談話にもとづき、文化の日を期して実施させるよう各大学と都道府県教育委員会に通達を出した。

 また「共産主義に対する精神的自衛力」として「静かなる愛国心」の教育が必要とする天野文相は、十一月七日の全国教育長会議で修身科復活、「国民実践要領」の必要を表明した。

 日教組機関紙「教育新聞」の編集を担当していた私は、「君が代」について著名人にアンケートを送り、寄せられた回答を三号にわたり紙面に掲載した。
 荒正人・荒畑寒村・板垣直子・内田巌・大内兵衛・小田切秀雄・加藤勘十・戒能通孝・佐多稲子・坂西志保・向坂逸郎・島上善五郎・高橋正雄・淡徳三郎・丹羽文雄・野間宏・長谷川如是閑・平林たい子・三木鶏郎・宗像誠也・柳田謙十郎・山川菊栄・山川均が回答を寄せてくれた。反対が殆どであったが、「儀礼的ならばよい」との長谷川も、「賛成」の丹羽も、「新国歌の制定」を提案している。

 朝鮮戦争は一進一退の激戦が続き、十月二十日には国連軍が平壌を陥れ、さらに北進する勢いを示すと、中国人民義勇軍が鴨緑江を越えて朝鮮戦線に出動、北朝鮮・中国連合軍は十二月五日、平壌を奪回し、三十八度線をめざして南下した。

 こうして内戦から始まった戦争が文字通りの大規模な国際戦争に発展するに至った。

 警察予備隊を発足させた政府は十月三十日付で、アジア太平洋戦争開戦後の陸海軍学校入学の旧軍人三千二百五十人の追放解除を発表した。

四 スローガン「教え子を再び戦場に送るな」の決定と広がり

 一九五一年の年頭のあいさつで日教組の岡三郎委員長は、「新しい年を迎えてわれわれのなすべきことは、いかなる事態に処しても毅然として労働組合の主体性を堅持し得るように組合の態勢を整備することである」と強調し、「基本的人権を守り、民主主義を守るため、われわれ知識労働者が先頭に立ってたたかうべきである」ことを訴え、「五一年は敗戦以来かつてなき苦難の年となろうが、このような時にこそ前進への意欲を高めるべきであり、これ以上は一歩も退かないという一線を確立してたたかわねばならない」と、執行部の決意を述べ、「全国五十万教職員諸君の奮起を切に望む」と結んだ。

 中央執行委員会は一月七日から、二十四、二十五の両日に開く第十八回中央委員会の議案審議に取り組んだ。

 「米ソによる新たな戦争の恐怖におののく世界、だが、平和は絶望ではない」を柱のひとつとする「内外の情勢報告」をはじめ、「教育予算の大幅確保」「国家公務員法の改正、地方公務員法の制定反対」を中心とする国会闘争方針、五月の地方選挙闘争を広範な反自由党勢力の結集でたたかうという選挙闘争方針、さらに「君が代反対、新国歌制定運動の推進」などは大きな問題なく審議が進行したが、千葉千代世婦人部長から平和運動方針とスローガン案の追加修正として提案された「教え子を再び戦場に送るな」をめぐつて、白熱的な論議が二日間にわたって交された。

 私の手元に、九一年に八十四歳で不帰の客となった千葉千代世が八八年に書いた一通の書簡がある。

 「朝鮮戦争が始まって以来、再び戦争の危機感が増してきた。戦前・戦中・戦後を体験した私達はなによりも平和の願いが強かった。勤めていた東京芝区の学校の卒業生(で戦死者)の遺骨を父母代表と東京駅に受け取りに行き、増上寺で度重なる区民葬をしたが、戦争逼迫につれてそれもできなくなり、子どもたちを連れて塩原町に集団疎開をし、空腹と虱退治に明け暮れした。『欲しがりません勝つまでは』のがんばりのどんなに悲惨なものであったか。

 個人的には二度の空襲によるわが家の焼失、夫も十年間を中国の戦野で身を弾丸に曝していたことなどから、恥ずかしさも忘れて討論に立ち上がった。

 私の提案は、運動方針案の平和運動のところで『教え子を再び戦場に送らないために、われわれは平和への……』を挿入するものであったが、議論百出の末やっと挿入が決まった。次の日にスローガンを決めることになった。私は迷わずに、昨日決まった運動方針の中に挿入された『教え子を再び戦場に送るな』を抜き出してスローガンに加えることを提案した。これがまた議論沸騰してやっと決定した。

 私達婦人部は執行委員に個別に働きかけることにしたが、私は第一番に青年部長の佐竹さんに当たった。『絶対賛成だ。一番先に弾丸に当たるのは僕たちだからなァ』。また、大阪市立大学から大学部執行委員に出ていた南さんが賛成して他の専門部執行委員に働きかける。私達の運動の結果、翌日の執行委員会では、案外すっきりと通り決定したのだった」

 「議論百出」「議論沸騰」の具体的な状況は、もう半世紀も前の話で思い出せないが、千葉提案の出る時期が遅かったため、「一事不再議」を理由に反対する動議が出たのに対して、議長の岡委員長が、「大事な問題だから形式にとらわれずしっかり論議しよう」と裁断して討議を続行したことがいまなお記憶に残っている。

 五〇年の初め頃から高まってきた平和運動の中心課題は、安倍能成・大内兵衛らの平和問題懇談会の「講和問題についての声明」(五〇年一月十五日発表)に示されているように、「全面講和、中立不可侵、軍事基地反対」で、日教組の第十四回中央委員会(同年二月二十、二十一日)で採択された声明も「講和問題に関する声明」で、「全面講和、永世中立、軍事基地提供反対」をうたっている。

 この第十八回中央委員会では「再軍備反対」が最も強い関心事になっている。
 多くの質疑・討論が交されたうちで次の質疑・答弁を「教育新聞」(五一年二月二日付)と『日教組二十年史』が記録している。

大阪 朝鮮での中共の介入をどうみるのか。

東谷中執 中共の介入の是非よりも、これによって日本が明日にも中共の侵略をうけるような宣伝が行われ、再軍備が唱えられていることに関心をもたなければならない。

 「中国共産党」の朝鮮戦線への参加の是非は、中央委員の意見は二分されていたが、「再軍備反対」では一致していた。
 この中央委員会のハイライトは、「講和に関する決議」で、このなかに「再び教え子を戦場に送らない」決意がうたわれている。

講和に関する決議(要旨)
 「現在の国際情勢の中にあっては、講和条約はわれわれの所期する全面講和、日本の完全独立とは遥かに程遠いものとなることは想像にかたくないところである、特に最近表面化しつつある再軍備問題は、わが国をして国際紛争に直接介入することへの危険をはらむものとしてわれわれの最も警戒するところである。

 今こそわれわれは、平和への揺るぎなき願望を全世界に宣明して、全労働階級とともに強力な運動を展開する。

一、われわれの講和に対する基本的態度として全面講和、中立堅持、軍事基地提供反対を再確認する。

二、右の基本的態度から再軍備に反対する。

三、講和内容については、真に独立の名に値する条項の決定を強く要望する。

四、総評並びに勤労階級政党と統一的に決定し、闘争を展開してゆき、広く国民大衆の世論を結集する。

五、講和を通してかち得られる民族の完全独立は、国民一人一人の精神的自立を基盤とした積極的且広範な平和運動によって達成されることを信じ、再び教え子を戦場に送らない決意のもとに日常教育活動に努力を傾注する」(ゴジックは東谷

 この決議案に対する討論で大教組の中央委員は、次のような賛成意見を述べた。

 「現在の情勢は決してあまいものではない。決議のみでは足りない。具体的な行動こそ必要である。教え子を再び戦場に送らない決意がこの決議の柱となっているが、現在この柱はあまりにも細い。この柱を歩一歩拡大することに全力を傾けたい。原案に賛成する」(注②)

 この中央委員会の三人の議長のひとりは大教組の野原覚委員長であった。

 この日教組中央委員会から約一カ月半後の三月十日から三日間、総評第二回大会が開かれた。私は数人の青年中央執行委員とともに、国鉄労組・全逓労組などの仲間たちと緊密な連携のもとに、大会前の運動方針案作成の小委員会の段階から、総評大会も「平和四原則」を採択することを目指して奮闘した。
 大会では、運動方針の行動綱領案をめぐって白熱的な討論が交わされ、最終的にわれわれと協議のうえで全逓の代議員が提出した「われわれは再軍備に反対し、中立堅持、軍事基地提供反対、全面講和の実現により日本の平和を守り、独立を達成するためにたたかう」を圧倒的多数で可決した。大会の翌日、GHQのエーミス労働課長は、新しく選出された高野実事務局長らを招き、「総評大会の決定は占領政策に違反する」と非難した。しかし、GHQもそれ以上の踏み込んだ措置を採ることができないほどこの決定は多くの労働者の支持を集め、総評傘下の多くの単産の大会は日教組に続いて「平和四原則」を採択した。

 「全面講和要求、再軍備反対」を基調とする平和闘争で総評運動が大きく転換するなかで、日教組は五月二十九日から四日間、兵庫県城崎町で第八回定期大会を開いた。

 「この大会は、先の中央委員会で掲げられた『教え子を再び戦場に送るな』のスローガンを日教組全体のものとした点で全国の注目の的になった」(『日教組十年史』)。朝日新聞も大会前日の二十八日、「日教組大会と当面の諸課題」と題した社説を掲載し、「五十万組合員の関心はもちろん、広く世の注目をひいている」
と述べ、その第一に「子供を戦争から守るという一線に立って、どこまでも足を地につけた熱心な討議」を望んだ。

 議場の正面に「平和憲法を守り、教え子を再び戦場に送るな」の大会スローガンが掲げられ、運動方針の審議で岡委員長は代議員の質問に大要次のように答えて、「不退転の決意を披瀝した」(『日教組十年史』)。

 「平和四原則は誰に頼まれてやったものでもなく、ほんとうに戦争の危機からわれわれは平和を守らなければならないということを確認し、率先して教壇を通じて鼓吹してきた。われわれはあの敗戦を肝に銘じて日本の平和を真に確立することを誓ったのであり、如何に情勢の変化があり、また社会党がかりに平和四原則を変えようとも、われわれは教職員の良心に訴えて変えないことをお誓いする」

 夜を徹しての小委員会討議でねりあげられ、本会議で決定された運動方針は、基本方針の第一に「生活と権利を守り、……自主的教育の確立をはかり、民主主義を守り続けるとともに、ひろく父兄大衆と提携し、職場を防衛し青少年全体の幸福を守り抜かねばならない」を掲げ、続けて原案の第四におかれていた「全面講和、軍事基地反対、中立堅持、再軍備反対の四原則を堅持し、平和運動を展開する」を繰上げた。そして運動方針は「すべてを平和闘争に」集約するものであった。

 初期の日教組運動の画期を作り出した大会は最後に次のような声明書(要旨)を発表した。

 「われわれはいま、六年前広島長崎に投ぜられた原子爆弾によって、一瞬のうちに消え去った二十余万の同胞の運命を想起する。

 新たなる戦争の危機のさ中にあって、日本民族を戦争の惨禍から守り、平和的文化国家のゆるぎなき基礎を確立することはわれわれ教育労働者に課せられた最大の歴史的任務である。

 われわれは、現政府の反動的諸政策に反対する全勤労大衆と共に、生活を守る闘い、権利を守る闘い、特に新たなる構想のもとに打ち出された自主的教育確立の闘いを強力に押し進め、教育労働者の良心と倫理に基いて、あく迄も平和四原則を堅持して日本民族の自由と独立のために徹底的に闘い抜くものである」

五 新世紀の入り口で

 ここまで、「教え子を再び戦場に送るな」の採択に至るまでの経過について書いてきたが、このスローガンについて、いまは殆ど知られていないエピソードを披露しておきたい。

 一九五三年七月二十一日から二十五日まで、世界教員組合連盟(FISE)が提唱して、まだ米ソ英仏四カ国管理下にあったウィーンで、第一回世界教員会議が開かれた。四十八力国から教員代表とオブザーバーを併せて約四百五十人が参加した。前日教組書記長の魚谷時太郎を団長に日教組組合員と教育学者らからなる日本代表団十七人も参加し、私もその一員に加わることができた。

 この会議の主な目的の第一は「平和を擁護するために行うべき国際的な教員団体の諸活動」を討議することで、その委員会に私は矢川徳光(教育評論家・日教組講師団)・千葉千代世らと参加した。

 討議の中でわれわれは、日教組の平和運動の展開とスローガン「教え子を再び戦場に送るな」の採択を報告し、高知県の中学校教師竹本源治の詩を紹介した。

戦死せる教え兒よ

逝(ゆ)いて還らぬ教え兒よ/私の手は血みれだ/君を縊(くび)ったその綱の/端を私も持っていた/しかも人の師の名において/鳴呼!/「お互いにだまされていた」の言訳が/なんでできよう/
慚愧 悔恨 懺悔(ざんげ)を重ねても/それがなんの償いになろう/逝った君はもう還らない/今ぞ私は汚濁の手をすすぎ/涙をはらって君の墓標に誓う/「繰り返さぬぞ絶対に!」

(高知県教組発行『るねさんす』五十二年一月号)(注③)

 この報告は外国代表の感動を呼び、委員会決議草案作成の小委員会に日本の委員も推薦され、決議の中に平和の擁護のためにたたかうことが強調されねばならないという点で意見の一致をみることに貢献した。(注④)

 また、日本代表団のひとりであった羽仁五郎がドイツ語で竹本源治の詩を放送した時、ウイーン放送局員がハンケチで涙をおさえたという話があり、「このスローガン(と詩)に盛られた精神が、国境・人種をこえて、全世界の人々に訴えるものであったことが分かる」(『日教組十年史』)だろう。

 いまわれわれは新しい世紀の入り口に立つている。しかしこんにち子どもたちと教職員が直面している状況は、半世紀前に「日本の教育労働者がその良心と倫理にもとづき、歴史的任務を果たす」べく奮闘したたたかいのあとを改めて想起し、教職員の心をひとつに結んだスローガン「教え子を再び戦場に送るな」を新たな決意で掲げてたたかうことを強く求めている。私はすでに八十一歳の老兵、もう最後ともいうべき願いは、所属組合のちがいや、組合員・未組合員のへだてなく、すべての教職員諸君が、職場と地域で壮大な共同態勢を創り出し、「教え子を再び戦場に送らない」たたかいをすすめられることである。

(付記。本稿は、全教の機関誌『エデュカス』第三十一号に寄稿した文に加筆したものである)

①教職員レッドパージの数は約千七百人とする説が多いが、その根拠はいずれも明らかにされていない。レッドパージ強行の直後に開かれた日教組の第七回定期大会(琴平町)では、「この大会までに中央執行委員会に報告されたのは千十人以上」と報告されている。

 教職員レツド・パージ三十周年記念刊行会編『三十余年の星霜を生きて』で研究者の明神勲氏は「(日教組琴平大会での報告の数が)筆者の各県別の集計予想と最も近い」とし、「実際には千百人前後と思われる」と書いている。

②第十八回中央委員会の議案審議を行った中央執行委員会を報じた機関誌「教育新聞」(昭和二十六年一月十九日付)には、スローガンに「教え子を再び戦場に送るな」を決めた記事はなく、中央委員会を報じた「教育新聞」(同二月二日付)にもその記事は見当たらず、一面トップの見出しは「教え子を戦場に送るな」となっていて「再び」がない。しかし『日教組十年史』には、「中央委員会は、はじめて堂々と、『教え子を再び戦場に送るな』のスローガンを打ちだした」と記述している。さらにこの「千葉証言」があり、また、四十数年間日教組の情宣部書記であった望月宗明氏の著書『日教組とともに』(初版一九八〇年一月)にも、次のような「証言」が記載されている。

「舞台正面には『教え子を再び戦場に送るな』のスローガンが掲げられていた。/このスローガンは議案を審議した執行委員会で婦人部長の千葉千代世が提案してきまったものだった。……

 何人かの執行委員は『表現がきつい』『現実離れしていないか』などを理由で反対したため、その日はきまらず翌日まわしになった。/千葉は青年部の佐竹周一にも協力を求め、反対の執行委員を説得してまわり、やっと満場一致で決定した」

③山原健二郎氏(前衆院議員)からの教示によると、この詩には次の短歌がついている。

 送らじなこの身裂くとも教え子を ことわり理もなき戦の庭に

④世界教員会議で採択された「世界の教師たちにたいする呼びかけ」は、次のことばで締めくくっている。

子どもたちや若い者たちを守ること、
教育を守ること、それは君たち教師の最高の責務である。
教職者の団結に向かって進もう!
世界の平和と、人々のあいだの友愛とに向かって進もう!
  (日本代表団編『世界教員会議報告書』日教組発行)

  

教育における共同を強め、維新政治継続のもとでも、全力をあげて子どもと教育を守ろう

教育における共同を強め、維新政治継続のもとでも、全力をあげて子どもと教育を守ろう

2015年11月27日
大阪教育文化センター

 11月22日に投開票でおこなわれた、大阪府知事・大阪市長ダブル選挙の結果、知事、大阪市長ともに「大阪維新」の候補者が当選するという残念な結果となりました。

 このダブル選挙について、大阪教育文化センターは、11月11日付で山口隆事務局次長名で、「府民、市民の良識を結集し、共同の力で、維新の「教育こわし」にストップを!」という声明を発表し、維新政治による8年間にわたる「教育こわし」を告発するとともに、子どもを守る「オール大阪」の共同で、子どもが人間として大切にされる教育を前進させようと訴えました。そして、「大阪教育文化センターだより」No.94にその声明を掲載し、教育を守る共同の前進を呼びかけてきました。

厳しく問われた8年間の「教育こわし」、デマ宣伝に終始した「大阪維新」

 選挙戦では、教育問題が一つの大きな争点となりました。反維新の共同の候補者は、大阪の不登校児童数がこの8年間で激増していること、小中学校での暴力行為の発生件数が全国ワースト1になっていることを告発し、維新の教育政策は子どもたちのことを考えていない、その教育政策の結果、子どもたちの心が荒れてしまっていると訴えました。また、すすめられている高校つぶしに対しても、その学校を必要とする子どもがいる学校を競争率が低いからといって廃校にするようなやり方は許せない、行政がやるべきことは、子どもたちの教育を受ける権利を保障することだ、と力を込めて訴えました。

 これに対して維新の候補者は、先の住民投票のときと同様に、これまでの8年間で教育予算を削りに削ってきたにもかかわらず、「教育予算を5倍にした」などというデマ宣伝に終始しました。

 「大阪維新」は、この選挙戦全体をとおして、まともな政策論争をおこなおうとせず、「自民党、民主党、共産党の野合」批判、「過去に戻すな」の訴えを繰り返しましたが、教育分野では、より悪質なデマ宣伝で「維新政治」への批判をそらそうとする態度をとったことは断じて許せないものです。

維新政治継続のもとで、子ども、父母、教職員との矛盾はさらに広がる

 選挙結果は、維新政治継続ということになりましたが、選挙で示された民意は、8年間の維新政治のすべてにもろ手を挙げて賛成するものではなく、大阪の現状を変えたい、いまの閉塞感を何とかしたいという、いわば前向きのものであるといえます。

 とりわけ教育における民意は、この選挙戦で教育研究者や教職員組合、「大阪の高校を守る会」の父母のみなさんなど、多くの教育関係者が、維新政治による「教育こわし」を告発し、子どもたちを人間として大切にする教育をとりもどそうと訴えてこられてきたことにも示されているように、維新による「教育こわし」は許さない、というものであることは明らかです。

 府民、市民の願いと維新政治の矛盾は避けることができません。

 とりわけ教育においては、維新流の「教育改革」がすすめられる限り、それは子ども、父母、教職員との激しい矛盾を引き起こすことは間違いありません。子どもの人間的尊厳を踏みにじる維新流「教育こわし」と、子どもの成長をなによりも大切に、一人ひとりの子どもを人間として大切にする教育を求める父母、教職員の願いは、正面からぶつかりあうものとならざるをえません。

新たな共同の財産を生かし、子どもを守る共同をさらに広く、さらに分厚く

 この選挙戦をとおしてつくりあげられた新たな共同という財産を生かし、維新政治による府民の暮らし破壊、住民自治破壊をゆるさぬとりくみと固く結び、教育分野における共同をいっそう広げる必要があります。維新によるこれ以上の「教育こわし」を許さず、子どもと教育を守ろうという、教育における民意をもっと幅広く、もっと分厚くつくりあげ、どのような悪政がすすめられようとも、全力をあげて子どもと教育を守ろうという流れを教育における本流とするために、大阪教育文化センターもその一翼を担って奮闘するものです。

  

戦争法の強行に満身の怒りを込めて抗議し、戦争法の発動をゆるさず、子どもと教育を守るため、全力をあげてとりくみます

戦争法の強行に満身の怒りを込めて抗議し、戦争法の発動をゆるさず、子どもと教育を守るため、全力をあげてとりくみます

2015年9月19日
大阪教育文化センター

 9月19日未明、自民党・公明党などは、参議院本会議で戦争法案を強行採決しました。大阪教育文化センターは、この暴挙に対し、満身の怒りを込めて抗議し、戦争への暴走ストップ、戦争法の発動をゆるさず、全力をあげて子どもと教育を守る決意を表明するものです。

国会審議をとおして明らかになった4つの大問題

 第1の大問題は、戦争法が明らかに憲法違反であるということです。

 そもそも戦争法は、集団的自衛権行使の具体化です。集団的自衛権とは、日本がアメリカといっしょになって海外で戦争する国へとその国の形を変えることを意味します。そのことは、国会審議をとおして具体的に明らかにされました。国会審議では、防衛庁がつくったイメージ図が明らかにされ、そこでは、敵潜水艦を攻撃している米軍ヘリが、自衛隊のヘリ空母で給油し、また敵潜水艦を攻撃する事態が想定されています。これはまさに、米軍と一体になった武力行使そのものであり、武力行使を禁止した憲法9条に真っ向から違反するものです。

 戦争法が憲法違反であるということは、圧倒的多数の憲法学者が指摘しましたが、それにとどまらず、歴代内閣法制局長官、元最高裁判事、最高裁長官までが主張するにいたりました。戦争法が憲法違反であることは、明々白々の事実として示されました。

 憲法違反の法律はその存在そのものがゆるされないものです。憲法違反の法律を強行した安倍政権と自民・公明の責任はきわめて重大です。

 第2は、立憲主義の否定です。

 この戦争法のおおもとには、昨年7月1日に安倍内閣がこれまでの憲法解釈を根底から覆し、「憲法9条のもとでも集団的自衛権行使は可能」とした閣議決定があります。これまで歴史的に積み上げてきた憲法解釈を一内閣が一片の閣議決定で覆すことは、立憲主義の否定すそのものといわなければなりません。まさに改憲クーデターというべきものであり、断じてゆるせないものです。

 第3は、そもそも戦争法案をつくる必要性について説明がつかなくなってきたことであり、立法事実不存在ということが明らかになったことです。

 安倍内閣は当初、戦争法をつくる必要性について、一つは、日本人が乗っているアメリカ艦船が攻撃されたときにこれを守るため、とイラストまで使って説明しました。ところが、国会の最終盤になって、「日本人が乗っていなくても集団的自衛権の発動はありうる」と答弁しました。当初述べていた根拠を自ら覆したものです。

 いま一つは、「ホルムズ海峡の機雷掃海」のため、というものでしたが、それも国会最終盤になって「現実の問題として想定しているものではない」と答弁しました。これも当初述べていた根拠を自ら覆したものです。

 これらは、戦争法を策定する根拠そのものがなくなったということであり、戦争法をつくる理由について説明がつかなくなったことを明らかにしたものです。まさに立法事実不存在であり、本来ならば、戦争法案そのものを撤回すべきものです。これをゴリ押ししたというのが、今回の強行採決といわなければなりません。

 第4は、民主主義破壊です。

 戦争法案の審議がすすめばすすむほど、国民の中に、反対世論が広がり、「戦争法案反対」は、どの世論調査でも過半数を超えました。また、「今国会で採決すべきでない」という意見は6割を超え、「政府の説明不足」という国民の声は8割を超えました。また、国会審議では、政府はあらゆる問題で答弁不能に追い込まれ、参議院段階だけで実に111回も審議が中断しました。国会最終盤では、安倍首相自身が「国民の理解を得られていない」と述べるにいたりました。

 このような状況で採決をおこなうなど、絶対にあってはならないことでしたが、安倍内閣と自民・公明は9月17日、テレビで繰り返し放映されたように醜い姿を国内外にさらして、安保法制特別委員会で採決を強行しました。まさに民主主義破壊の暴挙といわなければなりません。

空前の規模で広がった国民の運動、これからも止まらない

 一方、国民の運動は、空前の規模で広がりました。とりわけ、若者の立ち上がりが大きな特徴です。

 この間の動向だけをみても、8月30日の国会前行動には12万人、同日おこなわれた大阪扇町公園には2万5000人。これをはじめ、国会での重要段階を迎えた9月14日には国会前4万5000人、その前日の13日には大阪ではシールズ関西をはじめ11の青年グループが主催した御堂筋パレードに2万人、広島では7000人の人文字、京都4700人、福島2500人、鹿児島2000人、高知1800人、名古屋では、集会のわずか6日前に結成したばかりのシールズ東海が主催した集会とデモに1500人と、全国各地でかつてない規模での反対運動が展開されました。強行採決は断じてゆるせませんが、今回の国会における強行は、これらの反対の声と運動に追い詰められた結果であるといわなければなりません。

 戦争法は強行されましたが、これで終わるものでは決してありません。

 参議院の中央公聴会で公述人として意見表明したシールズの中心的メンバーの奥田愛基さんは、その意見陳述の中で「戦争法案が強行採決されれば、全国各地でこれまで以上に声が上がるでしょう。連日国会前は人であふれかえるでしょう。私たちは決して今の政治家の方の発言、態度を忘れません。次の選挙にももちろん影響を与えるでしょう。私たちは学び、働き、食べて、寝て、そしてまた、路上で声をあげます」と述べました。また、委員会での強行採決がおこなわれた9月17日、TVインタビューに応じた20歳の女子学生は、「これからが正念場です。私は声を上げ続けます」と胸を張って語っています。

 いま、国民一人ひとりが主権者として立ち上がっています。そして、その中心は青年・学生です。これこそ未来への大きな希望です。それは、憲法が示す平和主義、立憲主義、民主主義を実現しようという新しい動きであり、新しい政治をつくる胎動といって過言ではありません。こうした動きに合流し、戦争法の発動をゆるさないとりくみを大いにすすめましょう。

「『戦争する国』の人づくり」=安倍「教育再生」をゆるさない

 戦争法を強行した安倍政権は、戦争法による「戦争する国づくり」と一体に「『戦争する国』の人づくり」である安倍「教育再生」の具体化を、いっそう強めてくる危険性を持っています。しかし、憲法違反の戦争法強行には、必ず歴史の審判が下されるでしょう。そして、「戦争する国づくり」と一体、「子ども不在」の安倍「教育再生」も憲法と教育の条理に真っ向から背くものであり、子ども、父母・国民、教職員の支持を得ることは絶対できません。

 私たちは、そのことに確信を持ち、安倍政権による「戦争への暴走ストップ」のとりくみをいっそう強めます。そして、子ども・若者を二度と再び戦場に送らない、という決意も新たに、現場教職員、父母・府民、研究者のみなさんとともに、安倍「教育再生」の具体化をゆるさぬとりくみを、大いに強めていきたいと考えています。

父母・府民のみなさん、力をあわせて子どもと教育を守りましょう

 父母・府民、教職員のみなさん。いまこそ力をあわせて子どもと教育を守りましょう。子どもたちの未来を閉ざす戦争への暴走をゆるさず、子どもの未来を守り、子どもたちとともに、未来をきりひらきましょう。そのための大きな力が憲法であり、教育の条理です。

 戦争への暴走ストップ!憲法と教育の条理に立脚して子どもと教育を守ろう!大阪教育文化センターは、父母・府民のみなさんに心を込めて呼びかけるものです。