教育への政治介入を許さず、子ども、父母・住民、教職員の願いが届く教育委員会へ

教育への政治介入を許さず、子ども、父母・住民、教職員の願いが届く教育委員会へ

2014年6月22日

大阪教育文化センター2014年度運営委員会総会

 安倍内閣は6月13日、教育委員会制度改悪のための地教行法改悪案を強行可決しました。私たちは、この教育委員会制度改悪に厳しく抗議するものです。

 この教育委員会制度改悪は、以下の重大な問題点を持っています。

 第1に、首長が「当該地方公共団体の教育、学術及び文化の振興に関する総合的な施策の大綱を定めるものとする」として、教育の方針を一般行政の長である首長が決定することによって、政治が教育に介入するしくみをつくるという大問題です。

 第2に、しかもその教育についての「大綱」は、「教育基本法第17条第1項に規定する基本的な方針を参酌して」定めるとされており、地方の教育方針を改悪教育基本法でしばり、改悪教育基本法の具体化をすすめるものとなっています。

 第3に、新たに首長が招集する「総合教育会議」を置き、ここで教育にかかわる事項を決めるとされており、結局首長の思うままの教育施策がすすめられることになります。

 第4に、これまで教育委員会の代表者であった教育委員長を廃止し、事務方の責任者である教育長が教育委員会を代表するとともに大きな権限を持つことになり、教育委員会は限りなく諮問機関に近づくことになります。

 結局、この教育委員会制度改悪のねらいは、教育委員会を国の方針と首長の方針の両面でしばり、教育を変質させようとするところにあるといえます。それは、政治が教育をコントロールしてはならないという戦後教育の出発にあたっての大原則を根本から崩すものといわなければなりません。

 これに対し、教職員はもとより、多くの教育学研究者、教育行政関係者、父母・住民から反対、あるいは慎重審議を求める声など、多くの危惧が寄せられていました。こうした声を無視して強行したことは、きわめて重大であり、許しがたい行為といわなければなりません。

 教育委員会制度改悪は、「愛国心教育」や過度な競争教育を子どもたちに押しつける仕組みづくりとして、この間すすめられてきている教科書検定基準の改悪や、ねらわれている道徳の「教科化」という流れと一体のものであり、安倍「教育再生」の一環です。

 安倍「教育再生」の背景には、解釈改憲によって集団的自衛権の行使を可能とし、日本をアメリカといっしょになって海外で「戦争する国」へと、この国の形を変えてしまおうとする危険な動きがあります。まさに、「『戦争する国』の人づくり」をねらうものと言わなければなりません。

 大阪教育文化センターは、この教育委員会制度改悪を重視し、これを許してはならないという立場から、第24回共同研究集会で「子ども、父母、教職員の願いが届く教育委員会へ」をテーマに、講演とシンポジウムをおこない、「教育における民意とは何か」をキーワードに、研究者、元大阪市教育委員長、元大阪府小学校長会会長、元大阪府立高校PTA協議会会長、全日本教職員組合前中央執行委員長によって、立場の違いを超えてこの問題を議論するなど、とりくみを強めてきました。 また、その準備過程で「教育委員会制度研究会」を新たにたちあげ、研究者、教職員、父母が率直な意見交換をしながら、研究をすすめてきています。さらに、機関誌「おおさかの子どもと教育」76号で、「安倍『教育再生』を大阪から撃つ-対抗軸はここに」をテーマに、教育委員会制度改悪はもとより、教科書をめぐる問題、道徳の「教科化」をめぐる問題を特集し、その問題点を明らかにするとともに、現場からのとりくみを汲み上げ、教職員をはじめ、多くの父母・府民のみなさんに広く知らせるとりくみをすすめてきました。

 大阪教育文化センターは、引き続き力を入れて、そうしたとりくみをすすめるものです。

 教育委員会の果たすべき本来の役割は、子どもの成長・発達を目的としておこなわれている教育活動を尊重し、教育の自由と自主性を守り、教育条件を整備するという役割です。

 教育委員会制度は改悪されましたが、この本来の役割まで消し去ることはできません。

 教育への政治の介入をゆるさないためにも、教育委員会にその本来の役割を果たさせることが重要です。そのために、子どもや父母・住民、教職員の願いを教育委員会に届け、教育行政に反映させていくとりくみを、従来にも増して強めることが求められます。それは、父母・住民が教育の主権者として力を発揮するとりくみといえます。その支えとなるのは、憲法と教育の条理です。

 大阪教育文化センターは、憲法と教育の条理の力に確信し、地域・草の根からそうしたとりくみが前進するよう、教育文化センター活動をとおして、さらに力を尽くすものです。

  

大阪府教育振興基本計画の策定についての見解

大阪府教育振興基本計画の策定についての見解

子ども不在の子ども支配―大阪府教育振興基本計画―

子どもたちにゆきとどいた教育のための条件整備を府民共同の力ですすめよう

2013年2月8日

大阪教育文化センター

はじめに

 大阪府は12月19日、2013年度から10年間を期間とする「大阪府教育振興基本計画(素案)」(以下、「計画」)をまとめました。この教育振興基本計画というのは、2006年に第1次安倍内閣によって強行された改定教育基本法第17条に位置づけられたものであり、当時の国会での審議でも、政府が教育振興基本計画を定めること、政府の教育振興基本計画を参酌して地方公共団体が同計画を定めることについては、憲法に照らして疑義が生じていたものです。

 しかも、大阪府においての「計画」は、2012年3月府議会で強行した教育行政基本条例及び府立学校条例の具体化そのものです。この教育関連条例は、行政権力による教育に対する介入に道を開くものであり、教職員はもとより広範な父母・府民のみなさんから厳しい批判が寄せられていたものです。

 「計画」は、この教育関連条例の具体化の中心的な柱をなすものであり、後に詳しく述べるように、行政権力の教育への介入をすすめるとともに、切実な父母・府民の教育条件整備要求には、まったくと言ってよいほどこたえないものとなっています。

1.憲法・子どもの権利条約一言もなし、子どもや教職員の実態ないがしろ、子ども不在の子ども支配

 戦後の教育は、憲法にもとづいて、平和・人権・民主主義という憲法の理想の実現を教育の力に求め て出発しました。これは、戦前の教育が、教育勅語にもとづいて「お国の為に死ね」と教えたことからの根本的転換でした。ですから、教育と憲法は切っても切 れない関係にあり、教育について語るとき憲法を無視することはできません。

 ところが、「計画」には、どこを探しても憲法という言葉が見当たらないのです。これが第1の特徴であり、ここに「計画」の基本性格があらわれています。

 憲法は、基本的人権の重要な1つ として教育権を定めており、これを無視することは人権としての教育という視点を持たないということを示しています。また、子どもの権利条約は、子どもを保 護される存在であるとともに権利の主体としてとらえ、教育への権利や意見表明権をはじめ、子どもの権利についての国際的基準です。ところが「計画」には、 この子どもの権利条約という言葉も見当たりません。これを無視することは、子どもを権利主体ではなく、管理・支配の対象としていることを示しており、まさ に子ども不在であると言わなければなりません。

 「計画」の第2の 特徴は、子どもと教職員の実態を一顧だにしていないことです。「計画」には、「大阪の教育をめぐる動き」という項目はありますが、そこで述べられているこ とは、教育関連条例の制定をはじめとする行政施策のみであって、肝心の子どもの実態については、まったくふれられていません。貧困と格差拡大が長引く不況 もあいまって、子どもの安心のよりどころである家庭を直撃し、子どもたちの発達の困難を生み出しています。また、競争強化の教育政策の進行のもとで、苦し められ、「生きづらさ」を抱える子どもたちも増大しています。そうした子どもたちの実態を無視して、教育をどうすすめるかを語ることはできません。この点 でも、まさに子ども不在の「計画」と言わなければなりません。

 また、教職員の実態もまったく述べられていません。教職員は、平均で月80時間を超える超過勤務という実態におかれつつも、歯を食いしばって「子どものために」と、毎日教育活動にとりくんでいます。教職員の労働条件は、子どもの教育条件のもっとも重要な1つであり、ここを改善せずに大阪の教育を「振興」させることはできません。

 こうした子どもと教職員の実態をふまえない計画によって、大阪の教育がよくなるはずはありません。

 特徴の第3は、これまでの施策に対する検証は一切抜き、ということです。

 たとえば「計画」では、「生徒・保護者による授業に関する評価を踏まえて…その評価結果を給与に 反映するなど、がんばった教員が報われる仕組みづくりに取り組みます」と述べていますが、「教職員の評価・育成システム」に対しては、その導入時点から現 在まで、圧倒的多数の教職員から「これでは教育はよくならない」という声が寄せられ、74% の管理職が、「評価・育成システム」の賃金リンクについては「意欲・資質・能力の向上に役立っていない」と答えています。「計画」は、このことにまったく 無反省の立場を明らかにしています。自らのおこなってきている施策に対する検証抜きに出される「計画」は、それ自身正統性を疑われて当然です。

 以上、総論的に問題点を指摘した上で、以下、いくつかの角度から、教育振興基本計画についての見解を述べます。

2.行政権力の長である首長が教育目標を設定してはならない

①なぜ、行政権力は教育目標を設定してはならないのか

 第1の大問題は、「計画」が教育についての目標を策定していることです。この「計画」の策定者は、知事ですから、文字どおり行政権力の長が教育目標を設定しているということになります。

 政治権力が教育の目標を設定してはならないというのは、戦後民主主義教育の出発点にあたっての大 原則です。それは、戦前の教育が侵略戦争遂行という国の政策に従属させられ、侵略戦争賛美の教育をすすめさせられたことに対する痛苦の反省にたったもので あり、それゆえ、憲法と教育の関係について論じた旭川学テ最高裁大法廷判決でも「教育内容に対する国家的介入はできるだけ抑制的でなければならない」と述 べているのです。

 さらに文部科学省も「首長による教育目標の設定は違法」と述べており、これをふみはずし、知事が教育振興基本計画をとおして教育目標を設定することそのものが、絶対におこなってはならない違憲・違法なものといわなければなりません。

②しかも、目標そのものが大阪の子どもと教育の実態をふまえたものでなく、子どもたちに自己責任を押しつけるもの

 「計画」は3つの目標を設定しています。「計画」が子どもの実態を無視していることについては、すでに述べましたが、この目標自体が、子どもの実態をふまえないばかりか、子どもに自己責任を押しつけるものになっていることは重大です。

 たとえば、目標の第1に は、「自らの力や個性を発揮して夢や志を持ち、粘り強く果敢にチャレンジする人づくり」があげられていますが、いまの社会状況は、子どもが夢や志を持てる ものとなっているでしょうか。「計画」自体が、「大阪の教育を取りまく状況」でも「経済的な格差が進学機会や学力の格差につながり世代を通じて固定化」な ど指摘しているように、さまざまな社会的困難があることは明らかです。子どもたちが自分たちの力を発揮しようとしてもできない、夢を持ちたくても持てない 社会状況にあるという事実があるもとで、そうした社会状況を改善することを抜きに、子どもたちに「力を発揮せよ」「夢を持て」と言うことは、「夢や志を持 たないのは子どもの責任」という立場を示す以外の何ものでもありません。

 教育活動の出発点である子どもの実態を無視する「計画」の立場だからこそ、責任を子どもたち自身に押しつけるものとなっているのです。

 目標の第2は、「大きく変化する社会経済情勢や国際社会の中で、自立して力強く生きる人づくり」とされていますが、ここにも自己責任論が見て取れます。つまり、どのような社会であろうとも自立して力強く生きよと子どもたちに説くものといわなければなりません。

 しかも、この目標の文言は、「激化する国際競争に迅速的確に対応できる世界標準で競争力の高い人 材」と述べた教育基本条例ほど露骨な表現ではありませんが、その趣旨は国際的な経済競争の中でたくましく生き抜けというものであり、結局財界の利潤追求に 追随して生きる「人材」の育成を求めるものとなっていると言わなければなりません。

 第3の「自他の生命を尊重し、違いを認め合いながら、自律して社会を支える人づくり」では、「社会の形成者としての自覚」「忍耐力・責任感、規範意識」が強調されています。結局自己責任論にたって、はむかわず、だまっておとなしく、世の中の流れについていく人間の育成を述べるものとなっているのではないでしょうか。

 総じて、子ども一人ひとりの能力を最大限に開花させ、主権者国民を育てるという観点は全く見られず、権力や財界にとって都合の良い「人材」を育てようとするのが「計画」の立場です。

③国・府の悪政のつけを教育に押しつけるという大問題

 このように見てくると、「計画」の掲げる教育目標は、つまるところ、国や府の悪政の結果つくりだされている長引く不況、貧困と格差拡大、雇用条件の悪化、という問題から目をそむけ、その悪政のつけを子どもと教育に押しつけるものとなっていると言えます。

 「計画」では、「大阪の教育を取りまく状況」の項で、「景気の低迷が長引く中で、中間所得層が減少するとともに低所得層が増加することにより、所得格差の増大とその固定化が懸念されます」「両親の年収と子どもの高校卒業後の進路との間に相関関係がある」「15~24歳の完全失業率が平成23年では8.2%となるなど、そのしわ寄せが若年者に強く及んでいます」と言及しています。

 それらを改善する課題は、教育の課題ではありません。国と大阪府の経済政策によって改善するべき課題です。そこにまったく言及せず、すべてを教育の課題に流し込もうとする「計画」は、こうした国・府の悪政のつけを子どもと教育に押しつけるという重大問題を持つものです。

3.公立私学一体にいっそうの競争強化をすすめるとともに、高校統廃合の方向を示す

 「計画」は、「公私の切磋琢磨により高校の教育力を向上させます」と述べています。大阪府は、国における公立高校授業料無償化を前提に、私学の授業料についても年収610万 円未満の家庭については、無償という措置をとってきました。私学の授業料を無償化することそのものは、よいことです。しかし問題は、このことをとおして、 授業料という点では公立と私学をフラットにして、公私一体に競争をすすめるという政策的意図をもって、これがすすめられてきていることです。「計画」は、 この路線を踏襲し「切磋琢磨」論にたって公私一体の競争強化をすすめるものとなっています。

 そして、公立私学を問わない競争強化と一体に高校統廃合の方向が示されています「計画」は「今 後、生徒数の減少が見込まれる中、その動向と府立高校への志願状況の変化も見据えながら…効果的・効率的な学校配置を図っていくことが必要」として、「生 徒数減少を見据えた再編整備方針を策定し…再編整備を計画的に進めます」と述べています。まさに、高校統廃合推進計画の宣言と言わなければなりません。

4.「できる子」「できない子」を分け隔てし、財界の労働力政策に見合った人づくりをねらう

 「計画」は、「社会のリーダー層やグローバル人材に必要な資質・能力の育成」として、「グローバ ルリーダーズハイスクール(進学指導特色校)…を充実するとともに…社会のリーダー層やグローバル人材に必要な資質・能力の育成に取り組みます」と述べ、 一部エリート校づくりを露骨にすすめるものとなっています。その一方で、「『ものづくり』をはじめとする職業人の育成」として、一部エリート校以外の学校 を安上がりの労働力づくりの「受け皿」とする方向を打ち出しました。高校統廃合は、一部エリート校づくりと選別的教育の推進の道具としての役割をも果たさ せるものとなっています。

 また、障害児教育では「就労を通じた社会的自立」を強調し、そのための「個別の教育支援計画」をすすめるとしています。ここにはすべての障害児の発達保障と言う立場を見てとることはできません。

 これらを通してねらわれているのは、日経連が1995年 「新時代の『日本的経営』」で示し、その後の新自由主義的経済政策によって推進されてきた、財界が求める労働力政策に見合う「人材」育成を教育に求めると いうものではないでしょうか。子どもの成長・発達の保障という教育の目的を、権力や財界が求める「人材」育成に変質させる、まさに維新の会の「教育基本条 例案」の本質が明らかにされています。

5.教職員に対する管理統制強化で教育はよくならない

 「計画」は、学校と教職員に対するいっそうの管理統制強化をねらうものとなっています。

 まず、教職員に対しては、「生徒・保護者による授業に関する評価を踏まえて…その評価結果を給与 に反映するなど、がんばった教員が報われる仕組みづくりに取り組みます」と述べています。いま現場では、「授業アンケート」が大問題となっています。「授 業アンケート」というならば、授業の改善につながり、そのことによって子どもたちの学習が前進するものでなければなりません。ところがこの「授業アンケー ト」は、肝心の教員には子どもや父母が授業をどう見ているのかについてはまったく知らせず、校長の「教職員評価」にこれを組み込み、賃金と連動させようと いう、よこしまなものなので、これでは教育はよくならない、という声が広範な教職員、父母から寄せられているものです。

 これだけ大問題になっている「授業アンケート」に対する反省もなく、教職員の管理統制のための方策としてこれを使うなど言語道断といわなければなりません。

 また、若年層を対象とした管理職づくりをねらっていることも重大です。「計画」は、「ミドルリー ダーの育成」として「中堅職員を対象とした管理職養成研修の実施や若手教員の首席・指導主事等への任用」と述べています。こうした若い世代を狙い撃ちにし ての管理職づくりは、上意下達体制のいっそうの強化につながることは明らかです。教育行政や管理職がすすめる「マネジメント」に都合のよい教員を若い年代 から管理職あるいは中間管理職として登用することによって、教職員管理をすすめようとするものです。

 また、校長のリーダーシップの強調も「計画」の特徴です。「計画」は、校長が「よりリーダーシップを発揮して学校運営が行えるよう、さらなる権限強化やマネジメント能力等に秀でた人材の任用をすすめる」と述べています。

 校長が高い教育的識見と豊かな教育実践力によって、学校がすすめる教育活動の前進のためにリー ダーシップを発揮することは重要です。しかし、「計画」がいうリーダーシップは、そうした教育的リーダーシップではなく、いかに教職員を管理する能力に長 けた校長を育成するかという観点に貫かれています。

 しかも、そうした校長を「公募」により求めるとして、教育の条理も子どもの成長発達を保障するという学校の果たす役割も、教職の専門性も軽視あるいは無視して、企業経営の論理にたって「マネジメント能力」を求めることは、教育の前進に役立つものではありません。

 教育を前進させるためには、直接子どもとかかわる教職員の自主性や教職員としての専門性にもとづ く自主的権限を尊重し、闊達な教育活動をすすめることこそ重要です。「計画」の方向では、教職員が委縮させられ、あるいは「お上のいいなり」にさせられて しまい、教育の前進に逆行します。

6.教育行政は、教育条件整備に徹すべきー父母・府民の共同の力で、切実な教育要求実現をめざそう

 そもそも教育行政が果たすべきもっとも重要な役割は、子どもたちにゆきとどいた教育のための条件整備です。この点で、「計画」で評価できるのは、「府立学校の耐震化率100%を目指すとともに、公立小・中学校の耐震化を促進する」と述べている部分のみです。「計画」は、子ども、父母・府民、教職員の切実な要求である35人、30人学級ついては、まったく言及していません。少人数学級の教育的な効果は誰の目にも明らかであり、山口県では、県独自の施策によって、国の水準を大きく越えた小学校1年生から中学3年生までの35人学級を実施しており、いまや大阪府の少人数学級実施は、全国最低水準となっています。「計画」は、一人ひとりの子どもたちに目を行き届かせる教育を、という願いに背を向けるものといわなければなりません。

 また、教職員増についてもまったく言及されていません。正規採用教職員を減らし、大量の定数内講師を配置している大阪では、その結果先生が病気などで休ま れても、その代替の教員が配置できないという、「教育に穴があく」という、あってはならない深刻な事態がいまも続いています。一体、この事態をいつまで放 置するつもりなのでしょうか。「計画」は10年間を見通してのものとされていますが、今後10年もの長きにわたって、こうした教職員不足を放置するつもりなのでしょうか。これで「教育振興」などと、よくもいえたものです。

 さらに、経済的理由で学校に行けないという状況をなくすための重要な施策としての、府独自の給付制奨学金制度を求める声も切実ですが、「計画」は一切ふれていません。一体、子どもの学習権保障をどう考えているのか、根本的に問わなければなりません。

 総じて「計画」は、口出ししてはならない教育の内容については、あれこれ指図しながら、教育行政 の基本的責務である教育条件整備については、まったくと言ってよいほど言及しないというものとなっており、子ども、教職員、父母・保護者、府民の願いに まったく背くものとなっていると言わざるを得ません。

 教育行政は、教育条件整備に徹すべきです。そのため、子どもの願い、父母・府民、教職員の願いを 総結集し、「教育振興基本計画」を教育条件整備計画とさせていきましょう。そのために、教育についての府民的対話と討論、それにもとづく教育合意づくりを 呼びかけるものです。そして、その合意を基礎に、教育行政にその実現を迫るとりくみを、うんと強めましょう。

 子どもは、未来に生きる存在であり、私たちの希望です。その子どもの教育をどうするか、それは、 大阪の未来に直結する、大変大事な課題です。その大事な課題を一部の人たちにまかせておくわけにはいきません。主権者である父母・府民がいっしょになっ て、子どもの未来を切り開こうではありませんか。心からよびかけるものです。

  

体罰一掃のよびかけ

体罰一掃のよびかけ

あらゆる教育の場からの体罰の一掃を呼びかけるとともに、体罰問題を利用した教育への政治介入に断固反対します

2013年2月8日

大阪教育文化センター

 大阪市立桜宮高校で、体罰を苦にした生徒が自殺するといういたましい事件が起こりました。私たちは、あらためて亡くなられた男子生徒の冥福を祈るとともに、遺族の皆様に心からお悔やみを申し上げるものです。

あらゆる教育の場からの体罰の一掃を、そのための徹底した議論を

 体罰は、暴力であり重大な人権侵害です。体罰は、教育とはまったく無縁であり、どのような理由をつけても許されるものではありません。体罰は、日常の教育活動や部活動を問わず、すべての教育の場から一掃されるべきものです。

 そのためには、まず、直接の当事者である教職員の間で、体罰を教育現場から一掃するための徹底し た真剣な討論が求められます。それは、学校の教育活動を教育の条理にもとづいて、子どもの人権尊重を第一義として、子どもの成長発達のみを目的としたもの へとつくりかえるいとなみでもあります。一つひとつの学校からの徹底した討論をすすめ、これまでも学級や学年や学校でおこなわれてきている、子どもたちへ の「体罰一掃宣言」など、教職員の決意を示すとりくみをすすめましょう。また、教職員の間での討論をすすめる過程で、子どもの意見を聞き、父母のみなさん の意見もよく聞いて、とりくみをすすめましょう。そのとりくみは、必ず、子どもの成長を中心にすえ、父母と教職員が力をあわせた教育活動の前進につながり ます。そうした父母と教職員の共同のとりくみで、子どもたちの人間としての成長をはぐくむ学校づくりをすすめましょう。

同時に、体罰をなくすための府民的討論を呼びかけます。

 「なぜ、こうした事態がおこったのか」 「教育の場やスポーツ界で体罰や暴力がなくならないのは、どうしてなのか」率直に意見を出し合って、子どもたちのすこやかな成長をはぐくむ教育をどのよう にしてつくりあげればよいか、そのために父母・府民としてできることは何か、などについての話し合いを地域・草の根からすすめましょう。その府民的討論 は、体罰一掃のための太い流れをつくりだします。同時に、それは、体罰問題だけにとどまらず、大阪の子どもと教育をどうするかという話し合いに発展するに 違いありません。そうした話し合いをとおしてつくられた合意をもとに、学校や教育委員会に要求すべきことは、しっかりと要求することが重要です。そのこと が、父母・地域住民の声に耳を傾ける学校や教育行政へと改革するとりくみとなります。府民的対話と合意づくりで体罰一掃と大阪の教育の前進をめざしましょう。

体罰問題を利用した教育への政治介入に断固反対します

 同時に、体罰問題を教育への政治介入に利用しようとする動きが強められています。橋下市長は、こ の問題が起こった時、「行政の大失態。ぼくが陣頭指揮をとる」と発言しましたが、これ自体、大問題です。これは、市長が教育現場に介入することを宣言した ということです。一般行政をつかさどる首長部局が、教育行政を意のままに動かすこと、また、教育行政を飛び越えて学校と教育に介入することは、絶対におこ なってはなりません。

 これは、教育への政治介入そのものです。政治は教育に介入してはならないというのは、戦後教育の 出発点にあたっての大原則であり、ここを踏み外してはなりません。事実、それ以後の橋下市長の一連の言動、行動をみると、教育予算まで「人質」にして桜宮 高校体育科の入試中止に圧力をかけるなど、許しがたいものとなっています。この体育科入試中止によって、何の罪もない受験生を不安に駆りたて、その進路を 奪ったことはきわめて重大です。

 こうしたやり方は、体罰と同様に、相手を力でねじ伏せようとするものであり、教育と教育行政のあ り方をゆがめるだけではなく、体罰問題の解決にも障害を持ち込むものといわなければなりません。しかも、教職員や生徒、保護者が全体として体罰を容認して いたかのように描き出しておこなうというやり方は、事実をゆがめ、責任を生徒や保護者に転嫁するものであり、子どもや保護者の心をはかりしれなく傷つけ る、許しがたいものです。

 さらに重大なことは、この間の橋下市長の発言を注意深く読むと、橋下市長自身が一切の体罰の否定 という立場に立っていないということです。彼は、「スポーツの指導の場において手をあげることは一切禁止」とは述べていますが、一方で「学校教育の場面 で、先生がギリギリの状況で手をあげる場面はある」と述べています。この立場では、体罰一掃というとりくみはできようはずがありません。さらに、橋下・維 新の会が2012年の府議会に提出していた「教育基本条例案」には、明 確に「教員は…有形力を行使」できると述べられています。これは体罰容認の立場にほかならず、橋下・維新の会は、このことに対する徹底した反省こそ求めら れるものです。ところが、それは一切不問にしたうえで、学校教育への介入をすすめるなど、まさに言語道断といわなければなりません。

 体罰は、教育の問題としてきちんと克服、解決すべき課題であり、こうした政治利用は、断じて許されません。

 政治介入の動きの背景には、橋下・維新の会が公約である「維新八策」で、教育委員会制度の廃止を掲げていることがありますが、今回の事態は、教育委員会制度の廃止がどれほど危険なものであるかを端的に示したものといえます。

 教育への政治介入を許さず、教職員、父母・府民共同のとりくみをすすめ、体罰一掃にむけて真摯な話し合いを積み重ね、子どもたちのすこやかな成長を保障する学校と教育をつくりあげようではありませんか。心から呼びかけます。

  

大阪教育文化センターの教育改革提言

子どもたちの人間らしい成長をはぐくむ、あたたかいまなざしに満ちた教育を、みんなで

―大阪教育文化センターの教育改革提言―

2012年9月6日

はじめに

 大阪府・大阪市では、橋下・「大阪維新の会」などによって、教育行政基本条例をはじめとする教育条例が多くの父母・府民・市民、教職員の反対の声を押し切って強行されました。今後これらの条例の撤回を求めるとりくみを強めなければなりません。

 同時に、こうした悪い条例が強行されたもとでも、子どもたちのすこやかな成長のために、父母、府民、教職員が力をあわせて学校づくりをすすめ、教育を前進させていく必要があります。教育改革というのならば、子どもの成長・発達を土台にすえた教育改革こそが求められます。

 大阪教育文化センターは、そうした立場から、父母・府民の立場にたった教育改革提言を作成しました。ぜひ、学校や地域で話し合っていただき、知恵を出し合って、どうすれば子どもたちの人間らしい成長をはぐくむ教育をすすめることができるか、いっしょに考えあっていきたいと思います。

1.父母・保護者、教職員が力をあわせた学校づくりを

 第1の提言は、子どもたちのすこやかな成長のために、父母・保護者のみなさんと教職員が力をあわせて学校づくりをすすめましょう、ということです。

 教育には、法律や条例で決められることと決められないことがあります。子どもたちにどんな教育をすすめるか、という問題は、法律や条例で決めて押しつけるものではありません。どのような条例が決められたとしても、教育が子ども、父母、教職員の直接的関係でいとなまれるという事実は消し去ることができないのです。

 成長・発達の主体は、子どもです。その子どものもっとも身近にいて、成長・発達を助ける役割をもっているのは、お父さん、お母さん方であり、学校では先生方です。

 父母・保護者のみなさんも教職員のみなさんも、子どもたちが人間らしくすこやかに育ってほしいという願いをもって、毎日子育てにはげみ、教育活動をおこなっています。同じ思いを持っている父母・保護者のみなさんと教職員のみなさんが、子どもの成長・発達をともに喜び合う関係になれば、それは、間違いなく子どもたちの励ましになります。そうなれば、問題があれば、すぐに話し合う関係がつくられることになります。

 そういう関係を、教育活動がおこなわれるもっとも基礎的な単位である学級を基礎につくることが大切です。その方法は、たとえば、学級通信をとおしてつながりをつくる、学級PTAを活発にして、いろいろと話し合う、連絡帳を活用したり、父母のみなさんの「つながりノート」をつくったりして日常的な意見交換をおこなうなど、いろいろあると思います。

 お父さん、お母さんの側からも積極的に学校の扉をたたきましょう。教職員のみなさんは、すすんで扉を開きましょう。そういう関係がつくられれば、「いじめ」などの深刻な問題が起こったときでも、必ず力をあわせて解決することができるはずです。ぜひ、一歩を踏み出しましょう。

 そして、その関係を学年に、学校に広げましょう。その場合、PTAが大事な役割を果たすことになります。PTAは、父母のみなさんと教職員のみなさんの共同の組織です。お互いが子どもと教育について語り合いとりくむPTA活動に、気軽に、積極的に参加することをよびかけたいと思います。

2.大阪の教育をどうするかについての府民的対話と合意運動を草の根から

 第2の提言は、地域で子どもと教育の問題について話し合う場をつくりましょう、ということです。どのような条例が決められたとしても、教育をどうするかを決めるのは、父母・国民です。そのことを憲法は第26条で、国民の教育権として定めています。

 この間、府内50か所をこえて「2条例の制定をゆるさない連絡会」などがつくられました。教職員のみなさんは、それぞれの地域で、こうした連絡会の活動にさまざまな形で参加してこられたと思います。条例が強行されたもとで、連絡会の活動をどうするか、という話し合いが各地域ですすめられていると思いますが、今後のとりくみの柱として、地域で子どもと教育を考えるよりどころとして発展させることを提案してみればどうでしょうか。また、子育て・教育を考えるネットワークや市民会議がある地域では、その活動として、草の根から子どもと教育について語り合う活動をすすめてみることも大切だと思います。

 対話と合意づくりのとりくみでは、全国的には、北海道の宗谷で、父母・住民、教職員、教育行政が、教育観や立場の違いを超え、子育てと教育について一致できる課題で共同するとりくみがすすめられ、教育条件整備や学校づくりで成果をあげています。大阪でも、「市民熟議」という新たなとりくみによる探究が始まっています。

 それぞれの地域・草の根から、「学校選択制って、教育をよくすることになるの?」「小中一貫教育って子どもの成長にとってどうなの?」「中学校給食は自校方式がいいよね」「早く30 人学級にしてほしいね」など率直な語り合いをすすめ、教育についての府民合意運動をすすめることを提案します。

3.教育委員会を地域住民の願いを反映し、学校教育の前進に役立つものに改革する

 第3の提言は、父母・住民の立場にたった教育委員会改革をすすめようということです。

 教育委員会について、みなさんはどう考えておられるでしょうか。学校現場では、教職員をしめつける元凶と映っているかもしれません。父母・住民のみなさんは、なかなか自分たちの願いを実現する役所になっていない、と思っておられる方も多いのではないでしょうか。とりわけ、この間の大津市の「いじめ」自殺事件の報道などを見ていると、教育委員会の硬直した姿勢が目立ち、教育委員会って本当に信頼できるのだろうか、という相当深い疑問も広がっているのではないかと思います。

 たしかに、戦後の文部行政によって、教育委員会の自主性が奪われ、文部科学省→都道府県教育委員会→市町村教育委員会という上意下達の体制がつくられてくるなかで、父母、教職員のみなさんから教育委員会に対する不信が生まれてきて当然の面があります。こうした気分に乗じて、橋下・「大阪維新の会」などは、教育委員会を廃止すればよいという考え方を示しています。

 しかし、教育委員会をなくしてしまえば、父母・住民の願いや教育現場の要求が実現するのでしょうか。

 教育委員会をなくしてしまうと、教育は、知事、市長の命令や議会で多数を持つ「大阪維新の会」など、一部の政治勢力のもとにおかれてしまうことになり、子どものための教育から「お上のため」の教育にされてしまいます。これでは、一番大事にされなければならない子どものための教育ではなくなってしまいます。

 もともと教育委員会は、戦後教育の出発点にあたって、戦前、政治が教育を支配して、侵略戦争をすすめる政策に見合う偏った教育がおこなわれ、お国のために命を捨てよと教えた痛苦の経験をふまえ、教育行政は一般行政と区別されて、子どもたちの教育条件を整えるためにつくられたものでした。住民の意見を反映するために、教育委員も首長が任命するのではなく、住民が選ぶ公選制でした。これが中央集権的に変えられ、それにともなって、教育委員会は、父母・住民の願いや教職員の願いから遠ざけられてきたのです。

 教育委員会に民意を反映するとりくみとして、将来的には公選制をめざしつつ、とりわけ、もっとも現場の近くにある教育委員会としての市町村教育委員会を、父母・地域住民、教職員の声に耳を傾けるように改革することはできるのではないでしょうか。先に述べたように、学校教育のあり方について父母・地域住民の合意をつくり、それを土台として教育委員会に必要な条件整備を求めるとりくみを強めることによって、それは可能となると思います。

 たとえば、学力テストに参加するかどうかを決める権限は市町村教育委員会にあるのですから、教育委員会が真剣に話し合い、自主的判断をおこなって学力テストに不参加と決めることはできます。現に「全国いっせい学力テスト」が実施されたとき、愛知県犬山市の教育委員会は、これに不参加の決定をしました。父母・地域住民、教職員がいっしょになって、子どもたちのためになるとりくみを教育委員会に求めることが大切なのではないでしょうか。教育についての合意運動と一体に、教育委員会改革をすすめるとりくみを提言します。

4.教育振興基本計画を教育条件整備計画に

第4の提言は、「教育振興基本計画」を教育条件整備計画にしようということです。

大阪府・市の教育条例では、「教育振興基本計画」を決めることになっています。

 ここに橋下・「大阪維新の会」は教育目標を入れ込もうとしていますが、それは、文部科学省も指摘しているように違法となります。ですから、この計画には、子どもたちへのゆきとどいた教育のための条件整備を盛り込ませましょう。今や全国最低のレベルになった大阪の少人数学級をもっと拡大させること、学校耐震化をすすめること、返す必要のない給付制奨学金制度をつくること、私学助成を拡充することなどなど、大阪の教育条件をよくするための課題はたくさんあります。こうした計画づくりを父母・府民、教職員の力をあわせた運動によって実現させましょう。

5.「子どもいじめ」の教育政策をやめさせるために、地域運動、社会運動とむすんでとりくむ

第5の提言は、とりわけ大阪市で、市民のくらしや福祉を切り捨てる施策をゆるさぬとりくみとむすんで2条例の具体化をゆるさないとりくみをすすめようということです。

橋下・「大阪維新の会」のすすめようとしている教育政策は、子どもたちを追い詰め、追いたて、苦しめ、「教育は2万%強制」という特異な教育観で、子どもがいやがることでも無理やり押しつけるものであり、一言でいえば「子どもいじめ」の教育政策です。

 このような「いじめ」は、橋下市長が大阪市ですすめようとしている教育以外の施策にもあらわれています。高齢者に対しては敬老パスの有料化、若者に対しては、新婚世帯向け家賃補助制度の廃止、子育て世代には、前年度市民税非課税世帯からの保育料徴収、ひとり親家庭などへの上下水道福祉措置の廃止、文化の面では、大阪市音楽団の廃止、大阪フィルハーモニー協会、文楽協会への補助金削減など、全世代、全分野に及ぶ削減となっています。まさに「市民いじめ」と言わなければなりません。

 この間、こうした「市民いじめ」の施策反対の署名は90万を超え、ダブル選挙での橋下氏の得票を大きく上回っています。とりわけ大阪市では、こうした「市民いじめ」をゆるさない運動と大きく合流し、「子どもいじめ」の2条例の具体化をゆるさないとりくみをすすめることが求められます。

 市民的運動、地域からの運動を大きく広げるなかで、「子どもいじめ」の教育政策の具体化をストップさせましょう。

おわりに

 悪い条例は強行されましたが、強行されたらそれで終わりではありません。教育において一番大事なのは子どもです。そして、教育をどうするかを決めるのは、父母・国民です。

 いま、教育に求められることはなんでしょう。それは、大人でさえ生きづらい世の中を精一杯生きている子どもたちに、あたたかいまなざしを注ぎ、その成長・発達をみんなではぐくむことではないでしょうか。それは、人間不信と冷たさがそのもっとも大きな特徴である教育条例の対極にあるものと言えます。

 子どもたちの人間らしい成長のために、みんなで力をあわせようではありませんか。そのために、この提言が活用されることを心から願っています。

  

「教育基本条例案」「職員基本条例案」の撤回を求めます

子どもたちの学習権を侵害し、教育の場をいっそう競争的にする
「教育基本条例案」「職員基本条例案」の撤回を求めます

2011年9月21日 大阪教育文化センター

 橋下知事を代表とする「大阪維新の会」は、9月府議会に「教育基本条例案」と「職員基本条例案」を提出しました。これら二つの条例案は、政治による教育の支配をもたらすと同時に、教職員の管理強化を通して、学校で学ぶ子どもたちの学習権が侵害されるものであることから、直ちに撤回されることを求めます。

 教育という営みは、教師と児童・生徒との直接的な人間関係から形成されるものであり、それぞれの成長発達にあわせて行われなければならないことは言うまでもありません。それは、人格の完成を目指して行われるものであって、子どもたちの内面に関わる活動でもあります。そのため、教育活動への権力的介入は控えられなければならないのです。

 しかし、「教育基本条例案」によれば、教育に対して政治が優位に立つものとなっており、教育活動そのものへの政治支配を正当化しています。戦後の公教育は、日本国憲法にのっとり、子どもたちの教育を受ける権利(学習権)を保障するために行われるものとなりました。政治が教育へ介入した結果、戦争へ国民全体と駆り立てていったことに対する深い反省がそこにあったのです。それは、今でも決して放棄されるべきものではなく、一層強化されるべきものです。

 教育全体に対して知事が強い権限を持つことを定めています。府立高等学校の教育目標の設定は教育内容に対する明らかな政治介入です。教育委員の罷免制度は、教育行政に対する政治の介入です。校長は教育の専門職ではなく、あくまで学校管理者であればよく、知事の定めた目標の忠実な実行者であればよいとしています。教師に対しても、相対的な人事評価を通して、常に5%のDランクを設け、2年連続でDの場合には分限処分の対象とする、で同じ職務命令に3回違反すれば免職など、子どもたちではなく校長、教育委員会、知事の方を見ながらの職務遂行を求めている。

 さらに、大阪府独自の学力調査の実施と学校別の成績公表により、子どもたちを競争巻き込んでいくものです。実績を上げなければ、教師、校長の評価が下がります。子どもたちを教育の主人公ではなく、大人の道具とするものです。また、3年連続で定員割れした府立高校は統廃合の対象となります。すべての府民が高校教育を受けられる条件を満たすように公立高校は作られる必要があります。通学区域なども考慮に入れなければなりません。学区を廃止し、府下のすべての高校を競争させ、一部のエリート校だけを府立高校として残すことになります。 これでは、大阪府の責任を果たすことにはなりません。高校の統廃合で出た余剰人員は分限免職できる仕組みまで設けています。教師は、教育の専門職として適切な待遇を受けることは、ユネスコの教員の地位に関する勧告で指摘されていることに反します。

 学校間競争、学校内での競争、それに駆り立てられる子どもたち、こんな学校になってしまったのでは、本当の教育は成り立ちません。「子どもの自律」を教育目的の一つとしています。それは、競争社会の中で、他に依存しない子どもたちを作り上げることです。多様な価値観を共有しながら、支えあって生きていく社会ではなく、競争に負ければ自己責任だという価値観を押し付けるものにほかなりません。子どもたちは一層生きづらくなっていくでしょう。国連の子どもの権利委員会で3回にわたり指摘され続けている「過度に競争的な教育環境」を一層悪化させるものでしかありません。

 未来の子どもたちが自らの個性を伸ばし、成長発達権を保障するために、二つの条例は直ちに撤回されるべきです。