【追加提言2】「オンライン授業」について

授業—教師と子どもの息づかいが
感じられる空間だからこそ

2020年5月18日 大阪教育文化センター事務局

はじめに

提言」でもいわゆる「ネット授業」についてという項目で,その問題点について述べましたが,「オンライン授業」が必要以上にもてはやされる状況や一人一台のPCの前倒しなどがおこなわれようとしているもとで,あらためて「オンライン授業」について考える必要があるのではないかと思います。

もちろん,「オンライン授業」をすべて否定するものではありません。子どもの教育に役立つように使うことは大切なことだと考えます。
しかし,「オンライン授業」が授業をすべてカバーできるのかと言えば,そうではないと考えます。
その際,子どもたちの家庭にすべてネット環境が整っているわけではない,という問題や,そのことが引き起こす教育格差の問題は当然あり,これも大変重大な問題だと思います。
しかし,ここでは,そのことはひとまず横に置き,授業そのものをどうとらえるのかという角度から述べたいと思います。ご検討いただけたらうれしく思います。

授業は対話的・応答的関係でおこなわれます

私たちが授業に臨むとき,この教材で,子どもたちにこんなことを身につけてほしい,ここを理解してほしいと思いながら,子どもたち一人ひとりの表情やしぐさ,息遣いまでふくめて心を動かし,発問や質問をおこなっていると思います。
授業の前には,教材研究が不可欠ですが,そのときも,子どもたち一人ひとりの顔を思い浮かべながら,教材研究をしていると思います。また,授業を構想する際にも,同じように子どもたち一人ひとりの顔を思い浮かべながら,発問を考えたり,授業のすすめ方を考えたりします。

授業は「生きもの」

授業は,教師から子どもたちへの一方的な伝達ではありません。
教材を仲立ちにして,子どもと教師がお互いにやりとりをし,そのことをとおして,教材に対する認識を深めたり,子ども理解を深めたりするものだと思います。
それは,多くの先生方が経験されていることではないでしょうか。
また,授業の中で,時には子どもたちの思いもよらない発言に驚かされ,そのことによって,さらに子どもたちのみならず教師も認識が深められたり,新たな発見が生まれたりすることも,多くの先生方が経験されていると思います。

「オンライン授業」の問題点

「オンライン授業」で,そのことが可能でしょうか。
「オンライン授業」にとりくんだ岐阜県高等学校教員の斉藤ひでみさんは,
「生徒側の反応をみると,NHKの教育番組やYouTubeの講義動画などと違い,見知った学校の先生が画面に登場することに喜びを感じてくれたようです。クラスメイトと一緒に受けられる楽しさもあり,意欲的に参加してくれました」
「生徒は,新学期が始まっても新しいクラスメイトや教師に会えず,電話やメールで学校とやりとりを行う程度でした。そんな中で1カ月分の課題を出され,自律的に学ぶことを求められても,難しいことは分かります。オンライン授業で学校の先生,友だちと定期的に学ぶ時間を共有できることは,学習へのモチベーションを高め,つながりを実感できるという,大きな意義があるように思います」
と評価しながらも,
「生徒―教師の双方向的な学びを行うことが,思った以上に困難なことです。少人数ならまだしも,通常の倍以上の生徒を一度に教えるとなると,生徒たちとの双方向のやり取りは難しいのが現状です。何人もが同時に話し始めると収拾がつきませんし,生徒全員が画像を出すと授業が見づらくなってしまいます」
「私達教師も,生徒や保護者も,『オンライン授業を始めれば全て解決する』というような,過度な期待は禁物でしょう。現時点でできるのは『自宅学習課題の補完』程度のものであり,緊急事態の中で『ベストではないがベターな選択肢』として,捉えておくのが妥当だと思います」プレジデントオンライン2020年5/14(木) 11:15配信)と述べています。

■「登校日の対応と学習課題」についてはこちら■

双方向的な学びは困難

動画を一方的に流す場合は,当然のことながら対話的・応答的関係を取り結ぶことはできません。しかし,上記のように,子どもとのやりとりができる「オンライン授業」の場合でも,双方向的な学びをおこなうことが困難とされているのです。

子どもたちは集団として学びあいます

授業での対話的・応答的関係は,教師と子どもたちとの間だけで展開されるものではありません。
授業は学級という集団でおこなわれます。その中で,子どもたちどうしの対話的・応答的関係が形づくられます。
集団で学ぶからこそ,たとえば,ある子が発言したときに,
「それは,わたしの考えと少し違うような気がする」
また,「私の考えとよく似ている」
と,ほかの子が心を動かします。
そして,そのことを発言します。
そのことの積み上げによって,授業に広がりと深まりが出てくるのは,これも多くの先生方が経験されていることと思います。
「オンライン授業」では,それが可能でしょうか。

授業記録から考える…

小学校の文学教育の実際の授業記録をもとに考えたいと思います。
次にあげるのは,『明日を拓く』(2014年・部落問題研究所)に掲載されている河瀨哲也氏の授業記録です。
その授業記録から,それぞれの発問の意味について述べられている部分を削除し,本文には河瀨と書かれている部分をT,子どもの固有名詞(仮名)で書かれている部分をCとして,リライトしたものです。

教材は「ごんぎつね」。
小学校の教員ならば,ほとんどの先生がご存じの,全国でも数多の実践がおこなわれてきた教材です。

(以下 授業記録)——————
(本文)そのとき兵十は,ふと顔をあげました。と,きつねが家のなかへはいったではありませんか。
こないだ,うなぎをぬすみやがったあのごんぎつねめが,またいたずらをしにきたな。
「ようし」
兵十は立ち上がって,納屋にかけてある火なわ銃をとって,火薬をつめました。そして,足音をしのばせて近寄って,いま戸口を出ようとするごんをドンと,うちました。ごんは,ばったりと,たおれました。(子どもの音読)

T ここは,どう読めばいいのだったかな? だれの視角から書かれているのかな。
C 一斉に「兵十」

T どうして?
C 「ふと顔をあげました。と,きつねが家のなかへはいったではありませんか。」というところからわかります。ごんが自分で「はいったではありませんか。」とは言わないから。兵十の方から見ていることがわかるから。

T (みんなの納得するのを確かめて)そうだね。それでは,ここでわかること,思うことをどうぞ。
C (すわったまま)ここは,かなんとこや。言うのもかなん…。(ほかの子どもも「そうや」「そうや」と口々に言いだす)

T そうやね。だけど,ここをしっかり読まないと。いやなことだけど,そのままにしておいて…
C(前のCと同じ子) (私の言葉がおわらないうちに)「あかん。」というんやろ。わかってるがな。先生。ぼくから言うわ。「なんで,兵十は,鉄ぽうをうつんや。」「こんなにやさしいごんを殺すのや。」とぼくはいいたいのやけど,ここでわかることは,兵十は,やさしいごんのことをちっとも知らんのやからしょうがない。そやけど,ぼくは,腹が立ってくる…。

T上手に言えたね。他の人は?
C 兵十は,ごんのことを,「うなぎをぬすみやがったあのごんぎつねめ」としか思っていないことがわかるので,兵十は,ごんのやさしいのを知らないことがわかるので,火なわ銃をうつのもわかるけど…。

T それで… 自分の思うことを正直に言ったら。
C(前のCと同じ子)それで,「私は,ごんは悪いきつねじゃないよ。」と大きな声で教えてやりたいと思った。
C 「あのごんぎつねめが,またいたずらしにきたな。」というところで,ごんぎつねめの「め」とか「また」とか書いてあるので,兵十は,ものすごくごんのことをにくんでいると思う。
C そやからな,「ようし。」いうて,絶対,にがさへん。絶対,うち殺したると思っている兵十や,と思う。

T そうやろね。それで兵十は…
C 立ち上がって,火なわ銃をとって,火薬をつめて,足音をしのばせていき,戸口を出ようとするごんをドンとうった。

T その時の兵十の顔はどんな顔やったやろ?
C こわい顔
C 目がするどい。
C ぜったい命中させるぞ,という真剣な顔

T そうやろな。ところが,その時,みんなから見ると…
C ごん,あぶない。早くにげろ。
C 兵十,うったらあかん。
C 誰か出てきて,やめさせてという気持ちになってくる。

T ところが,兵十はドンと,うってしまった。ごんは,ばったりと,たおれた。兵十をみんなからみれば…
C 腹立つわ。
C 憎たらしい。うらむで,もう。という気持ち。
C ざんこく兵十や,と思う。

T 兵十にしてみたら,どうなの?
C しょうがない,わなぁ。
C そやから,ぼくらはかなんのや。(そうや,そうや。とうなずく子どもたち)
——————(以上授業記録終)

この授業記録を読めば,教師と子どもとの,また子どもたちどうしの見事な応答関係によって,「ごんぎつね」の文学的形象が,これもまた見事に読み深められていることがよくわかると思います。
こうした授業は「オンライン授業」では不可能だと考えますが,いかがでしょうか。

教室は子どもたちと教師がつくりあげる
    そこにしかない文化的空間です

先の授業記録を読めば,この教室に漂う人間的な空気感や子どもたちの表情や息遣い,教師の表情までもが浮かんでくるのではないでしょうか。そして,この授業にとどまらず,教師と子どもたちとの日常的なつながり,子どもたちどうしのつながりまで見えてくると思いませんか。
「ああ,いい学級だな」とだれもが思うのではないでしょうか。

この文学の授業に限らず,授業というのは,教材をめぐる教師と子どもの双方向の応答関係をとおして,教師と子どもたちが,あるいは,教師が子どもたちと,ともに真理・真実を追究する過程といえるのではないでしょうか。
そのことをとおして,子どもたちは,自然認識,社会認識,人間認識を深め,人格形成をすすめていきます。
先にも述べたように,教師も時には子どもたちの思いもよらない発言に驚かされ,そのことによって,教材に対する認識を深めたり,子ども理解を深めたりするものです。

授業は子どもの可能性を引き出し発展させる過程

教材とは,とりもなおさず文化財です。
「提言」にも引用しましたが,
「授業は,文化財の習得をとおして生徒の諸能力が発達していく過程であり,教材を媒介とする教師の働きかけ(発問とか教示)や生徒相互の影響のもとで生徒が自己発達をとげていく過程である。また,これを教師の側からみれば,文化遺産である教材を使って子どものなかにある可能性を引き出し発展させる過程ということができる」(『現代教育学の基礎知識』1979年 有斐閣ブックス)
これが,授業の本質ではないでしょうか。

授業の中でこそ発揮される教師の専門性

実際の授業場面で教師は,たとえば一つの発問をおこなったときの,子どもたち一人ひとりの表情やしぐさ,息遣いまで見逃さず,おそらくこのような発言をしてくれるだろうなと瞬時に判断して子どもを指名します。
その子の発言に,おそらくこの子は少し違う意見を発言するだろう,あるいはよく似た意見を発言するだろうと判断して,子どもたちの意見をつなげ,広げ,授業の深まりをつくろうとします。
また,その発問に首をかしげている子や「うん?」という表情をしている子がいれば,これも瞬時に判断して発問を変更したり,砕いたりして授業をすすめます。

これこそが教師の専門性の発揮であり,こうしたやりとりが形づくる空間が,まさにそこにしかない文化的空間なのではないでしょうか。
「オンライン授業」でこのような文化的空間を形づくることができるでしょうか。大変困難だといわなければなりません。

おわりに

冒頭にも述べたように,「オンライン授業」をすべからく否定するものではありません。情報通信技術の進歩は重要であり,それは,人類の文化の前進のために使われることが求められます。
教育においても,情報通信技術の進歩をうまく使って,よりわかりやすい授業をつくったり,日常の教育活動をすすめたりすることは必要だと考えます。
しかし,「オンライン授業」万能論に近い論調が広がっていることは危険だと考えます。
それは,授業の持つ本質をゆがめることになりかねず,使いようによっては,本来集団で学びあうべきである学習活動を,学習を個別化して,子どもどうしを切り離してしまう危険があると考えるからです。
以上,問題提起しました。いかがでしょうか。ごいっしょに考えあうことができればと思います。

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