中教審答申を読み解く

中教審答申を読み解く
中央教育審議会「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現~(答申)」について

2021年2月16日
大阪教育文化センター事務局長 山口 隆
【大阪教育文化センターだより№152(2月22日)に掲載】

はじめに

中央教育審議会(中教審)は1月26日、「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す、個別最適な学びと、協働的な学びの実現~」と題する答申(以下、答申)を発表しました。この答申は、後で述べるように、菅内閣がすすめる、デジタル化による国民管理と支配の一環として、ICTによる子どもと教育の支配をねらう重大な問題点を持つものです。また、新学習指導要領が2020年度に小学校で全面実施されたばかりなのに、GIGAスクール構想の前倒しに沿って、早くも新学習指導要領が打ち出した方向を修正しようとするものです。こうした重大な問題点とともに、現場で活用できるいくつかの注目すべき点もあると考えます。
以下、この答申について、とりあえずのコメントをおこないます。

1.ICTによる国民管理の一環として、子どもと教育の管理をねらう

菅内閣は、マイナンバーカードの運転免許証や健康保険証、銀行口座との紐づけなどをすすめようとしています。どれもが重要な個人情報であり、こうしたあらゆる個人情報を一元的に管理することで、国家権力が国民を管理し、監視するとともに、このデータを民間ビジネスにも利用しようとするものです。そのためにデジタル庁を創設しようとしています。

答申では、教師の負担軽減を口実に、ICTを活用して、子どもたちの学習履歴(スタディー・ログ)や生徒指導上のデータ、健康診断情報等を蓄積し、利活用すると述べています。上記のマイナンバーカードとの紐づけと一体に、子どもたちの学習や生活の履歴という個人情報が蓄積されれば、子ども時代から大人になるに至るまでの個人情報が一元的に管理されることになり、それをとおした国民管理にとどまらず、子どもと教育の管理をねらうものといわなければなりません。

2.「個別最適な学び」の名のもとに、学習の変質をねらう

答申は、「個別最適な学び」という文言を使用しています。これまで文部科学省は、Society5.0に向けた学校ver3.0では、「個別最適化された学び」という文言を使用していました。微妙に表現をたがえているのは、「誰のために誰が個別最適化したのか」という批判をかわすために、おそらくは、「子どもにとって」「個別最適な」学びという表現と受け止められるためのレトリックだと考えられますが、答申自身が「Society5.0時代が到来しつつあり」と述べていることからも明らかなように、本質的には、これまで文部科学省が述べてきた「個別最適化された学び」と変わりはないと考えられます。そのうえで、ここでは、答申の「個別最適な学び」という文言を使います。

この「個別最適な学び」は、学習のあり方そのものを変質させるものであると言って過言ではありません。本来学習は、個別性を持ちつつも、集団性を持つものです。とりわけ学校は、子どもたちの集団的な学びを保障するためにあります。子どもたちは、自然や社会、人間に対する認識を自然とかかわりながら、社会とかかわりながら、そして、集団とかかわりながら学んでいきます。それは、まぎれもなく集団的な学びであり、授業は、そうした対話的、応答的関係でつくりあげられるものです。
そのことについて、大阪教育文化センターは提言「オンライン授業について」で、以下のように述べています。

「授業での対話的・応答的関係は、教師と子どもたちとの間だけで展開されるものではありません。授業は学級という集団でおこなわれます。その中で、子どもたちどうしの対話的・応答的関係が形づくられます。集団で学ぶからこそ、たとえば、ある子が発言したときに、「それは、わたしの考えと少し違うような気がする」また、「私の考えとよく似ている」と、ほかの子が心を動かします。そして、そのことを発言します。そのことの積み上げによって、授業に広がりと深まりが出てくるのは、これも多くの先生方が経験されていることと思います。」

ところが、「個別最適な学び」は、そうではなく、学習を子ども個人のものとしてしまいます。つまり、本来、集団で学びあうべきである学習活動を、学習を個別化して、子どもどうしを切り離してしまう危険があるということです。これは、学習の変質をもたらすものであり、学習活動における自己責任論ともいえるものではないでしょうか。
こうした危険性を直視する必要があります。

3.矛盾に満ちた新学習指導要領路線からの修正

上述した問題点があるからこそ、答申も「個別最適な学び」一辺倒の記述はしていません。答申は、「個別最適な学び」とセットで「協働的な学び」を強調しています。答申は、「新学習指導要領の着実な実施」と述べていますが、中でも、授業改善については、「主体的・対話的で深い学び」を強調しています。「主体的・対話的で深い学び」をその言葉通り受け止めれば、それは、現場での実践が追求してきた授業のあり方と重なるものであり、「個別最適な学び」とは相いれないものです。

答申の本音は、新学習指導要領路線からGIGAスクール構想を中心とするICT教育路線への修正をはかろうとするものですが、まだ、新学習指導要領が全面実施された年度の途中であることも意識し、新学習指導要領を全面的に否定することはできずにいます。その姿が、本来相いれない「個別最適な学び」と「主体的・対話的で深い学び」が共存しているのは、そうした矛盾のあらわれにほかなりません。

4.実態を無視した教科担任制の導入

答申は、多くのマスコミも報道したように、小学校高学年への教科担任制の導入に言及しました。しかしこれには、大きな問題があります。

第1は、子どもの発達段階からみて、問題があるということです。これまで日本では、小学校段階では学級担任制、中学校以降は教科担任制がとられてきています。なぜ小学校で学級担任制がとられてきたかといえば、それは、小学校段階の子どもたちにとって、学習集団であると同時に生活集団である学級を教科で切り離すのではなく、子どもの生活と学習を一体的にとらえることができる学級担任制が望ましいと考えられてきたからにほかなりません。とりわけ思春期前期の入り口にあたる小学校高学年の子どもたちに対する指導は、大変デリケートな配慮が必要であり、生活集団と学習集団が一体である学級集団であるからこそ、そうした配慮が可能となります。そのことを考慮に入れない小学校高学年の教科担任制導入は、現場に大きな負担を強いることとなります。

第2は、学級担任を前提として算出される教職員定数では、教科担任制はできないということです。
義務標準法は小学校での学級担任制と中学校での教科担任制を前提に教職員定数を定めています。たとえば、小学校で6学年すべて3学級で、全校18学級の場合、乗ずる数は1.2であり、教員数は21.6≒22人となりますが、中学校で3学年すべて6学級で18学級の場合は、乗ずる数は、1.557であり、教員数は、28.0≒28人となります。同じ学級数で、小学校の教員数は中学校より6人も少ないのであり、これで教科担任制を導入するというのは、教員の負担増となるのは、誰が見ても明らかです。

ただでさえ教職員は、過労死ラインを超える長時間・過密労働の実態に置かれており、教科担任制によって、さらに負担を強いることは、子どもの教育にとって大きな否定的影響を及ぼすこととなります。
教職員定数を抜本的に見直すというのならば、まだ議論の余地はありますが、現在の教職員定数をそのままにして、小学校高学年の教科担任制を導入することは、百害あって一利なしと言わなければなりません。

5.私たちの側に引き寄せ、現場の教育活動で活用可能ないくつかの記述

一方で答申には、私たちが現場で活用できるいくつかの記述が散見されます。

第1は、学校の役割についてです。
答申は、「新型コロナウイルス感染症の感染拡大を通じて再認識された学校の役割」という項を起こして、「子供たちや各家庭の日常において学校がどれだけ大きな存在であったのかということが、改めて浮き彫りになった」と述べ、「学校は、学習機会と学力を保障するという役割のみならず、全人的な発達・成長を保障する役割や人と安全・安心につながることができる居場所・セーフティネットとして身体的、精神的な健康を保障するという福祉的な役割をも担っていることが再認識された」と述べています。しかも、それらを「日本型学校の強み」とまで述べているのです。そうした学校は、教科、教科外の教育活動全体をとおして、子どもたちの「人格の完成」をめざし、営々と積み上げられてきた現場の教育実践、教育活動の総和にほかなりません。私たちは、答申も認めざるを得ない、こうした学校の果たしている役割に確信を持ち、これを活用し、子どもたちの実態に即した教育活動をさらに前進させていく必要があります。

また、答申は、「学級づくりの取組や、感染症対策を講じた上で学校行事を行うための工夫など、学校教育が児童生徒同士の学び合いの中で行われる特質を持つ」「学校の授業における学習活動の重点化や次年度以降を見通した教育課程編成といった特例的な対応がとられた。このように我が国の学校に特徴的な特別活動が、子供たちの円滑な学校への復帰や、全人格的な発達・成長につながる側面が注目された」とも述べています。これらは、『おおさかの子どもと教育』100号で紹介したように、コロナ禍の困難な状況であっても、現場ですすめられてきた「手探りの実践」が子どもたちの成長・発達を助ける重要ないとなみであったことを示しており、ここにも注目する必要があり、現場での実践を前進させるうえで活用できるものであると考えます。

第2は、ICTの位置づけについてです。すでに述べたように、答申の基本性格は、ICTによる子どもと教育の管理・支配にありますが、仔細に見てみるといくつかの活用できる記述も見受けられます。その1つは、ICT活用に関する基本的な考え方について、「ICTを活用すること自体が目的化してしまわないよう、十分に留意することが必要である。直面する課題を解決し、あるべき学校教育を実現するためのツールとして、いわゆる『二項対立』の陥穽に陥ることのないよう」と述べるとともに、子どもたちに対しては、「児童自身がICTを『文房具』として自由な発想で活用できるよう環境を整え、授業をデザインすることが重要」と述べています。一人1台のタブレットが配布されれば、今後、地教委などをとおして、あたかもICTを使うことが自己目的であるかのような押しつけがおこなわれる可能性がありますが、答申のこの文言を活用すれば、そうした押しつけを打ち破ることが可能であると考えます。

第3は、少人数編成への言及です。
答申は、コロナ禍での学校の実態について、「一クラスあたりの人数が多い学校では、クラス全員で一斉に授業を行おうとすれば、感染症予防のために児童生徒間の十分な距離を確保することが困難な状況も生じている」という認識を示し、「教室環境や指導体制等の整備を行うことが必要」としています。また、「『新しい生活様式』を踏まえた身体的距離の確保に向けて、教室等の実態に応じて少人数編成を可能とするなど、少人数によるきめ細かい指導体制…検討を進め」とも述べています。「少人数学級」という言葉を使うことは注意深く避けつつも、コロナ禍が浮き彫りにした1学級当たりの子どもの数が多すぎるということは認めざるを得ません。

この間、父母・国民、教職員などの粘り強い運動の結果、40年ぶりに義務標準法が改定され、小学校の35人学級が5年がかりという不十分さはあるものの実現した到達点をふまえ、さらにそれを前進させる足掛かりとして、この答申を活用することも可能ではないかと考えます。

おわりに

今後、さまざまな場で、この答申について議論されることだと思います。教文センターもコロナ禍のもとで延期されている研究会が再開されたら、それぞれの研究会の課題に引き寄せてこの答申を議論することが求められていると考えます。その際、このコメントが議論の一助となれば、大変うれしく思います。拙文を読まれたみなさん。ぜひ、ご意見をお寄せください。

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