2024年11月3日(日) →延期となりました
エルおおさか・大ホール(全席指定)
岩崎鬼剣舞に関わる本の紹介
茶谷十六著「安家村俊作」(あっかむらしゅんさく)
「安家村」という地名は、現在も存在しています。
岩手県の岩泉という北の方にあたります。
南部藩領野田通り安家村の俊作が南部三閉伊一揆を指導し勝利に導いたという史実を紹介した本です。江戸時代史上最大規模の大一揆です。
この本を書く前の数年前に新史料が発掘されたと書いてあります。
茶谷十六氏は、その資料と共に古文書を解明し、想像を重ね研究してこの著作にしました。
この農民による大規模な南部三閉伊一揆の成功の折に、「鬼剣舞」が大きな役割をしていたという実態が分かったそうです。
南部三閉伊一揆(なんぶさんへいいいっき)とは
嘉永6年(1853)5月から10月にかけて住民が決起した大一揆です。
三閉伊通りとは三陸沿岸の野田、宮古、大槌の三通りです。
百数十ヵ村の村から16000名の百姓たちが結束し整然とした組織と秩序のもとで政治要求をかかげ隣藩仙台領に越訴(おっそ)、百数十日にわたる粘り強い交渉の末一人の犠牲者も出すこともなくほぼ完全に要求を実現しました。
同じ年ペリーの黒船来航が日本を騒がせました。。
安家村俊作、別名、菊池俊作の生涯を資料を元に書いてある本は貴重だと思われます。
この地域に住んでいる人たちはこの史実を覚えていて欲しいし、伝えていきたいと思っています。
後藤竜二著「赤白だすき小〇(こまる)の旗風」(児童文学)
「百姓は天下の民なり」・・・一揆の土台を固める風花組の若者たち。小〇(困る)の旗を掲げ、636ヶ村がいっせいに蜂起した!・・・「非道は上より下り、正法は下にとどまる」(一揆衆の言葉)。一人の犠牲者も出さず、要求のすべてをかちとった幕末・南部藩の大一揆を後藤竜二がが描く。歴史の闇に葬られた誇らしい民衆の闘いが今蘇る!
一揆の原因は、藩領の農業生産力の低さが挙げられます。東北地方の太平洋側はヤマセ(冷たく湿った風)が吹くので、盛岡藩領は冷害に悩まされ続けました。江戸時代に盛岡藩領で起こった不作は合計92回飢饉に至った年は17回。そういう中でも御用金・年貢の取り立ては容赦なく徹底的にやられました。
幕末、この田野畑村やその周辺の村々の人たちが、一致団結(一味神水)し、当時の南部藩の悪政について、冷静に状況を分析し、時間をかけ相談に相談を重ねて、その上で起こした一揆なのだ。この寄合や相談の時に活用したのが「鬼剣舞」の練習だったと伝わっている。当時五人組という密告制度があった中で「祭りや練習は」認められていたから。
一揆を起こした彼らは、木綿の旗に、小〇と染め抜いて、四十九箇条の要求を南部藩に出した。
痛快なのは、藩主交代まで要求し、これが通ったことだ。
農民は、無学文盲だとする概念があるが、農民が、無学文盲であるなら、南部三閉伊一揆の資料は、農民の筆によって、後世にこれほど、残ってあるまいに。
この作品を書くにあたって、後藤竜二は10年の歳月を掛けて、アカデミックな南部三閉伊一揆の研究論文研究者の書籍から、地域に残る資料、現地取材など、徹底的に行ったと言う。
一揆というものは、窮鼠猫を噛むというようなことでは、為し得ないのだと。
時間を掛けて、何度も寄り合いを行い、互いに信頼し、協力し合い、準備をしっかり行い、冷静に計画されたものなだと。