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生活指導研究会 1月研究会

大阪教育文化センター 生活指導研究会

大阪教育文化センター生活指導研究会では、これまで中学校での実践を交流し合って来ました。毎回、各中学校現場での生き生きとした実践が報告されています。今回は、中学校の生徒会活動がテーマです。生徒の要求や願いをどのように生徒会でとりあげ、その実現に向けた活動に取り組んでいるか具体的に報告していただきます。

3学期の大変忙しい時期ですが、多くの皆様の参加をお待ちしています。

1月の生活指導研究会

「生徒の願いが作る中学校」-生徒会の取り組みと学校行事-

報告者/(市立中学校)
日時 2014年1月18日(土)午後6時~8時30分
会場 大阪教育文化センター

  

おおさかの子どもと教育 73号

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おおさかの子どもと教育  73号 2013年10月

特集 教育・子育てに生きる憲法

論考 「憲法の危機」 大阪経済法科大学教授丹羽徹さん
私の憲法教育 小学校/中学校/高校/私学
教育実践に脈々と流れる憲法の精神

小特集 ご存知ですか?NP0法人「教育相談おおさか」
大阪教育文化センターから生まれた教育相談機関です

  

おおさかの子どもと教育 72号

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おおさかの子どもと教育  72号 2013年7月

特集  大阪教青文化センター第23回共同研究集会

橋下「教育改革」と切り結ぶ教育実践・学校づくり
-毎日の教育活動の中にこそ力がある

・青年教職員と父母によるシンポジウム

・講演 愛知教育大学准教授 石井拓児さん

小特集 教育委員会制度を考える

大阪市立大学准教授 滝沢 潤さん
元大阪市教育委員長 池田 知隆さん

  

「原発と放射線」授業教材・中学校編が完成

大阪教育文化センター「原発と教育研究会」は、昨年まで原発と放射線をテーマとする授業実践の報告会を重ねてきました。それらの報告を基に、小学校、中学校、高校ごとに授業実践教材をまとめようと議論を重ね、ここに、中学校授業用教材が完成しましたのでホームページに公開します。どうぞ授業に自由にご使用ください。

授業5時間分として、本文、解答編、解説編の3部で構成しています。

ただし、この教材を使っての授業について、授業後の生徒の感想も交えた報告を、教文センター宛にメールにていただくようお願いします。

記入内容:授業者、学校名、授業学年、授業時間、授業者の感想、受講生徒の感想 等

教文センター e-mail:kyoubun(アットマーク)minos.ocn.ne.jp

さらに続けて、小学校編発行の予定です。

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中学校教材「原子核エネルギーと放射能」(本文)(PDFファイル 10.4MB)

中学校教材「原子核エネルギーと放射能」(解答編)(PDFファイル 10.5MB)

中学校教材「原子核エネルギーと放射能」(解説編)(PDFファイル 26.4MB)

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中学校教材 「原子核エネルギーと放射能」

1章 原子の構造と原子核

1.原子と原子の構造
2.原子の種類と質量数
3.原子の質量数と同位体

2章 原子核と放射線

1.放射線の発見
2.放射線の正体と性質
3.放射線の特徴
4.放射線による透過力の違いと遮蔽
5.放射能の減り方と半減期

3章 放射線と放射線障害

1.放射線による人体への影響
2.放射線の単位
3.放射線被曝と健康被害
4.外部被曝と内部被曝

4章 原子核エネルギーと「原爆」・「原発」

1.仕事とエネルギー
2.原子核エネルギーと核分裂
3.原子爆弾
4.原子力発電

5章 福島原発事故とエネルギー問題

1.国の電力政策と原子力発電
2.福島原発事故と「安全神話」の崩壊
3.日本の「自然エネルギー」
4.これからのエネルギーを考える

 

  

おおさかの子どもと教育 71号

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おおさかの子どもと教育  71号 2013年4月

特集
「ようこそ大阪の教育現場に!」 いっしょに学ぼう つながろう

おめでとう! 心からみなさんを歓迎します!
・ちょっと先輩のステキなメッセージ
・研究者から ”いっしょに歩もう” のよびかけ
・保護者からみなさんへのエール

2つのビッグ対談

大阪の子どもと教育を熱く語る(下)
-こんな時代だけれども、前を向きましょう-

生野照子さん (前 大阪府教育委員長)
久田敏彦さん (大阪教育文化センター評議員会代表 大阪教育大学教授)

「今、政治と教育の関係を考える」(下)

堀尾輝久さん(東京大学名誉教授 元日本教育学会会長)
山口 隆さん(大阪教育文化センター事務局次長)

  

原発と放射線 学習教材 高校編

原発と教育研究会は3・11震災後、原発と放射線授業の実践報告会を重ねてきました。

報告された教材をもとに研究会では、小学校・中学校・高校の実践教材を作成してきました。

小学校・中学校・高校のそれぞれの授業実践に役立つ教材作成にとりくんできました

まず教材高校編が完成しました。高校編は総合学習や理科、社会などの関係教科での授業実践に適するように、5時間の授業を想定して教材をつくっています。

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原発と放射線 学習教材 授業展開案(PDFファイル 447KB)

資料一覧(原子核エネルギー5時間版)(PDFファイル 157KB)

授業用プリント案(解答入り)(PDFファイル 1.4MB)

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原発と放射線 学習教材 高校編

授業展開

第1章 原子と核分裂エネルギー

第1節 原子核は何でできているか(原子核の構造)
第2節 質量がエネルギーに変わる(核分裂反応とエネルギー)
第3節 広島・長崎の悲劇を繰り返さないために(原子爆弾の原理)
第4節 見えない恐怖・放射能(※放射線の種類と単位と許容量)
第5節 練習問題
第6節 トイレなきマンション-原子力発電とその問題点

第2章 福島第一原子力発電所事故

第1節 絶対安全と説明されてきた原子力発電所
第2節 大地震の活動期にはいった日本列島
第3節 日本の電力構成
第4節 いろいろな発電方式

第3章 福島原発事故における情報操作

  

大阪府教育振興基本計画の策定についての見解

大阪府教育振興基本計画の策定についての見解

子ども不在の子ども支配―大阪府教育振興基本計画―

子どもたちにゆきとどいた教育のための条件整備を府民共同の力ですすめよう

2013年2月8日

大阪教育文化センター

はじめに

 大阪府は12月19日、2013年度から10年間を期間とする「大阪府教育振興基本計画(素案)」(以下、「計画」)をまとめました。この教育振興基本計画というのは、2006年に第1次安倍内閣によって強行された改定教育基本法第17条に位置づけられたものであり、当時の国会での審議でも、政府が教育振興基本計画を定めること、政府の教育振興基本計画を参酌して地方公共団体が同計画を定めることについては、憲法に照らして疑義が生じていたものです。

 しかも、大阪府においての「計画」は、2012年3月府議会で強行した教育行政基本条例及び府立学校条例の具体化そのものです。この教育関連条例は、行政権力による教育に対する介入に道を開くものであり、教職員はもとより広範な父母・府民のみなさんから厳しい批判が寄せられていたものです。

 「計画」は、この教育関連条例の具体化の中心的な柱をなすものであり、後に詳しく述べるように、行政権力の教育への介入をすすめるとともに、切実な父母・府民の教育条件整備要求には、まったくと言ってよいほどこたえないものとなっています。

1.憲法・子どもの権利条約一言もなし、子どもや教職員の実態ないがしろ、子ども不在の子ども支配

 戦後の教育は、憲法にもとづいて、平和・人権・民主主義という憲法の理想の実現を教育の力に求め て出発しました。これは、戦前の教育が、教育勅語にもとづいて「お国の為に死ね」と教えたことからの根本的転換でした。ですから、教育と憲法は切っても切 れない関係にあり、教育について語るとき憲法を無視することはできません。

 ところが、「計画」には、どこを探しても憲法という言葉が見当たらないのです。これが第1の特徴であり、ここに「計画」の基本性格があらわれています。

 憲法は、基本的人権の重要な1つ として教育権を定めており、これを無視することは人権としての教育という視点を持たないということを示しています。また、子どもの権利条約は、子どもを保 護される存在であるとともに権利の主体としてとらえ、教育への権利や意見表明権をはじめ、子どもの権利についての国際的基準です。ところが「計画」には、 この子どもの権利条約という言葉も見当たりません。これを無視することは、子どもを権利主体ではなく、管理・支配の対象としていることを示しており、まさ に子ども不在であると言わなければなりません。

 「計画」の第2の 特徴は、子どもと教職員の実態を一顧だにしていないことです。「計画」には、「大阪の教育をめぐる動き」という項目はありますが、そこで述べられているこ とは、教育関連条例の制定をはじめとする行政施策のみであって、肝心の子どもの実態については、まったくふれられていません。貧困と格差拡大が長引く不況 もあいまって、子どもの安心のよりどころである家庭を直撃し、子どもたちの発達の困難を生み出しています。また、競争強化の教育政策の進行のもとで、苦し められ、「生きづらさ」を抱える子どもたちも増大しています。そうした子どもたちの実態を無視して、教育をどうすすめるかを語ることはできません。この点 でも、まさに子ども不在の「計画」と言わなければなりません。

 また、教職員の実態もまったく述べられていません。教職員は、平均で月80時間を超える超過勤務という実態におかれつつも、歯を食いしばって「子どものために」と、毎日教育活動にとりくんでいます。教職員の労働条件は、子どもの教育条件のもっとも重要な1つであり、ここを改善せずに大阪の教育を「振興」させることはできません。

 こうした子どもと教職員の実態をふまえない計画によって、大阪の教育がよくなるはずはありません。

 特徴の第3は、これまでの施策に対する検証は一切抜き、ということです。

 たとえば「計画」では、「生徒・保護者による授業に関する評価を踏まえて…その評価結果を給与に 反映するなど、がんばった教員が報われる仕組みづくりに取り組みます」と述べていますが、「教職員の評価・育成システム」に対しては、その導入時点から現 在まで、圧倒的多数の教職員から「これでは教育はよくならない」という声が寄せられ、74% の管理職が、「評価・育成システム」の賃金リンクについては「意欲・資質・能力の向上に役立っていない」と答えています。「計画」は、このことにまったく 無反省の立場を明らかにしています。自らのおこなってきている施策に対する検証抜きに出される「計画」は、それ自身正統性を疑われて当然です。

 以上、総論的に問題点を指摘した上で、以下、いくつかの角度から、教育振興基本計画についての見解を述べます。

2.行政権力の長である首長が教育目標を設定してはならない

①なぜ、行政権力は教育目標を設定してはならないのか

 第1の大問題は、「計画」が教育についての目標を策定していることです。この「計画」の策定者は、知事ですから、文字どおり行政権力の長が教育目標を設定しているということになります。

 政治権力が教育の目標を設定してはならないというのは、戦後民主主義教育の出発点にあたっての大 原則です。それは、戦前の教育が侵略戦争遂行という国の政策に従属させられ、侵略戦争賛美の教育をすすめさせられたことに対する痛苦の反省にたったもので あり、それゆえ、憲法と教育の関係について論じた旭川学テ最高裁大法廷判決でも「教育内容に対する国家的介入はできるだけ抑制的でなければならない」と述 べているのです。

 さらに文部科学省も「首長による教育目標の設定は違法」と述べており、これをふみはずし、知事が教育振興基本計画をとおして教育目標を設定することそのものが、絶対におこなってはならない違憲・違法なものといわなければなりません。

②しかも、目標そのものが大阪の子どもと教育の実態をふまえたものでなく、子どもたちに自己責任を押しつけるもの

 「計画」は3つの目標を設定しています。「計画」が子どもの実態を無視していることについては、すでに述べましたが、この目標自体が、子どもの実態をふまえないばかりか、子どもに自己責任を押しつけるものになっていることは重大です。

 たとえば、目標の第1に は、「自らの力や個性を発揮して夢や志を持ち、粘り強く果敢にチャレンジする人づくり」があげられていますが、いまの社会状況は、子どもが夢や志を持てる ものとなっているでしょうか。「計画」自体が、「大阪の教育を取りまく状況」でも「経済的な格差が進学機会や学力の格差につながり世代を通じて固定化」な ど指摘しているように、さまざまな社会的困難があることは明らかです。子どもたちが自分たちの力を発揮しようとしてもできない、夢を持ちたくても持てない 社会状況にあるという事実があるもとで、そうした社会状況を改善することを抜きに、子どもたちに「力を発揮せよ」「夢を持て」と言うことは、「夢や志を持 たないのは子どもの責任」という立場を示す以外の何ものでもありません。

 教育活動の出発点である子どもの実態を無視する「計画」の立場だからこそ、責任を子どもたち自身に押しつけるものとなっているのです。

 目標の第2は、「大きく変化する社会経済情勢や国際社会の中で、自立して力強く生きる人づくり」とされていますが、ここにも自己責任論が見て取れます。つまり、どのような社会であろうとも自立して力強く生きよと子どもたちに説くものといわなければなりません。

 しかも、この目標の文言は、「激化する国際競争に迅速的確に対応できる世界標準で競争力の高い人 材」と述べた教育基本条例ほど露骨な表現ではありませんが、その趣旨は国際的な経済競争の中でたくましく生き抜けというものであり、結局財界の利潤追求に 追随して生きる「人材」の育成を求めるものとなっていると言わなければなりません。

 第3の「自他の生命を尊重し、違いを認め合いながら、自律して社会を支える人づくり」では、「社会の形成者としての自覚」「忍耐力・責任感、規範意識」が強調されています。結局自己責任論にたって、はむかわず、だまっておとなしく、世の中の流れについていく人間の育成を述べるものとなっているのではないでしょうか。

 総じて、子ども一人ひとりの能力を最大限に開花させ、主権者国民を育てるという観点は全く見られず、権力や財界にとって都合の良い「人材」を育てようとするのが「計画」の立場です。

③国・府の悪政のつけを教育に押しつけるという大問題

 このように見てくると、「計画」の掲げる教育目標は、つまるところ、国や府の悪政の結果つくりだされている長引く不況、貧困と格差拡大、雇用条件の悪化、という問題から目をそむけ、その悪政のつけを子どもと教育に押しつけるものとなっていると言えます。

 「計画」では、「大阪の教育を取りまく状況」の項で、「景気の低迷が長引く中で、中間所得層が減少するとともに低所得層が増加することにより、所得格差の増大とその固定化が懸念されます」「両親の年収と子どもの高校卒業後の進路との間に相関関係がある」「15~24歳の完全失業率が平成23年では8.2%となるなど、そのしわ寄せが若年者に強く及んでいます」と言及しています。

 それらを改善する課題は、教育の課題ではありません。国と大阪府の経済政策によって改善するべき課題です。そこにまったく言及せず、すべてを教育の課題に流し込もうとする「計画」は、こうした国・府の悪政のつけを子どもと教育に押しつけるという重大問題を持つものです。

3.公立私学一体にいっそうの競争強化をすすめるとともに、高校統廃合の方向を示す

 「計画」は、「公私の切磋琢磨により高校の教育力を向上させます」と述べています。大阪府は、国における公立高校授業料無償化を前提に、私学の授業料についても年収610万 円未満の家庭については、無償という措置をとってきました。私学の授業料を無償化することそのものは、よいことです。しかし問題は、このことをとおして、 授業料という点では公立と私学をフラットにして、公私一体に競争をすすめるという政策的意図をもって、これがすすめられてきていることです。「計画」は、 この路線を踏襲し「切磋琢磨」論にたって公私一体の競争強化をすすめるものとなっています。

 そして、公立私学を問わない競争強化と一体に高校統廃合の方向が示されています「計画」は「今 後、生徒数の減少が見込まれる中、その動向と府立高校への志願状況の変化も見据えながら…効果的・効率的な学校配置を図っていくことが必要」として、「生 徒数減少を見据えた再編整備方針を策定し…再編整備を計画的に進めます」と述べています。まさに、高校統廃合推進計画の宣言と言わなければなりません。

4.「できる子」「できない子」を分け隔てし、財界の労働力政策に見合った人づくりをねらう

 「計画」は、「社会のリーダー層やグローバル人材に必要な資質・能力の育成」として、「グローバ ルリーダーズハイスクール(進学指導特色校)…を充実するとともに…社会のリーダー層やグローバル人材に必要な資質・能力の育成に取り組みます」と述べ、 一部エリート校づくりを露骨にすすめるものとなっています。その一方で、「『ものづくり』をはじめとする職業人の育成」として、一部エリート校以外の学校 を安上がりの労働力づくりの「受け皿」とする方向を打ち出しました。高校統廃合は、一部エリート校づくりと選別的教育の推進の道具としての役割をも果たさ せるものとなっています。

 また、障害児教育では「就労を通じた社会的自立」を強調し、そのための「個別の教育支援計画」をすすめるとしています。ここにはすべての障害児の発達保障と言う立場を見てとることはできません。

 これらを通してねらわれているのは、日経連が1995年 「新時代の『日本的経営』」で示し、その後の新自由主義的経済政策によって推進されてきた、財界が求める労働力政策に見合う「人材」育成を教育に求めると いうものではないでしょうか。子どもの成長・発達の保障という教育の目的を、権力や財界が求める「人材」育成に変質させる、まさに維新の会の「教育基本条 例案」の本質が明らかにされています。

5.教職員に対する管理統制強化で教育はよくならない

 「計画」は、学校と教職員に対するいっそうの管理統制強化をねらうものとなっています。

 まず、教職員に対しては、「生徒・保護者による授業に関する評価を踏まえて…その評価結果を給与 に反映するなど、がんばった教員が報われる仕組みづくりに取り組みます」と述べています。いま現場では、「授業アンケート」が大問題となっています。「授 業アンケート」というならば、授業の改善につながり、そのことによって子どもたちの学習が前進するものでなければなりません。ところがこの「授業アンケー ト」は、肝心の教員には子どもや父母が授業をどう見ているのかについてはまったく知らせず、校長の「教職員評価」にこれを組み込み、賃金と連動させようと いう、よこしまなものなので、これでは教育はよくならない、という声が広範な教職員、父母から寄せられているものです。

 これだけ大問題になっている「授業アンケート」に対する反省もなく、教職員の管理統制のための方策としてこれを使うなど言語道断といわなければなりません。

 また、若年層を対象とした管理職づくりをねらっていることも重大です。「計画」は、「ミドルリー ダーの育成」として「中堅職員を対象とした管理職養成研修の実施や若手教員の首席・指導主事等への任用」と述べています。こうした若い世代を狙い撃ちにし ての管理職づくりは、上意下達体制のいっそうの強化につながることは明らかです。教育行政や管理職がすすめる「マネジメント」に都合のよい教員を若い年代 から管理職あるいは中間管理職として登用することによって、教職員管理をすすめようとするものです。

 また、校長のリーダーシップの強調も「計画」の特徴です。「計画」は、校長が「よりリーダーシップを発揮して学校運営が行えるよう、さらなる権限強化やマネジメント能力等に秀でた人材の任用をすすめる」と述べています。

 校長が高い教育的識見と豊かな教育実践力によって、学校がすすめる教育活動の前進のためにリー ダーシップを発揮することは重要です。しかし、「計画」がいうリーダーシップは、そうした教育的リーダーシップではなく、いかに教職員を管理する能力に長 けた校長を育成するかという観点に貫かれています。

 しかも、そうした校長を「公募」により求めるとして、教育の条理も子どもの成長発達を保障するという学校の果たす役割も、教職の専門性も軽視あるいは無視して、企業経営の論理にたって「マネジメント能力」を求めることは、教育の前進に役立つものではありません。

 教育を前進させるためには、直接子どもとかかわる教職員の自主性や教職員としての専門性にもとづ く自主的権限を尊重し、闊達な教育活動をすすめることこそ重要です。「計画」の方向では、教職員が委縮させられ、あるいは「お上のいいなり」にさせられて しまい、教育の前進に逆行します。

6.教育行政は、教育条件整備に徹すべきー父母・府民の共同の力で、切実な教育要求実現をめざそう

 そもそも教育行政が果たすべきもっとも重要な役割は、子どもたちにゆきとどいた教育のための条件整備です。この点で、「計画」で評価できるのは、「府立学校の耐震化率100%を目指すとともに、公立小・中学校の耐震化を促進する」と述べている部分のみです。「計画」は、子ども、父母・府民、教職員の切実な要求である35人、30人学級ついては、まったく言及していません。少人数学級の教育的な効果は誰の目にも明らかであり、山口県では、県独自の施策によって、国の水準を大きく越えた小学校1年生から中学3年生までの35人学級を実施しており、いまや大阪府の少人数学級実施は、全国最低水準となっています。「計画」は、一人ひとりの子どもたちに目を行き届かせる教育を、という願いに背を向けるものといわなければなりません。

 また、教職員増についてもまったく言及されていません。正規採用教職員を減らし、大量の定数内講師を配置している大阪では、その結果先生が病気などで休ま れても、その代替の教員が配置できないという、「教育に穴があく」という、あってはならない深刻な事態がいまも続いています。一体、この事態をいつまで放 置するつもりなのでしょうか。「計画」は10年間を見通してのものとされていますが、今後10年もの長きにわたって、こうした教職員不足を放置するつもりなのでしょうか。これで「教育振興」などと、よくもいえたものです。

 さらに、経済的理由で学校に行けないという状況をなくすための重要な施策としての、府独自の給付制奨学金制度を求める声も切実ですが、「計画」は一切ふれていません。一体、子どもの学習権保障をどう考えているのか、根本的に問わなければなりません。

 総じて「計画」は、口出ししてはならない教育の内容については、あれこれ指図しながら、教育行政 の基本的責務である教育条件整備については、まったくと言ってよいほど言及しないというものとなっており、子ども、教職員、父母・保護者、府民の願いに まったく背くものとなっていると言わざるを得ません。

 教育行政は、教育条件整備に徹すべきです。そのため、子どもの願い、父母・府民、教職員の願いを 総結集し、「教育振興基本計画」を教育条件整備計画とさせていきましょう。そのために、教育についての府民的対話と討論、それにもとづく教育合意づくりを 呼びかけるものです。そして、その合意を基礎に、教育行政にその実現を迫るとりくみを、うんと強めましょう。

 子どもは、未来に生きる存在であり、私たちの希望です。その子どもの教育をどうするか、それは、 大阪の未来に直結する、大変大事な課題です。その大事な課題を一部の人たちにまかせておくわけにはいきません。主権者である父母・府民がいっしょになっ て、子どもの未来を切り開こうではありませんか。心からよびかけるものです。

  

体罰一掃のよびかけ

体罰一掃のよびかけ

あらゆる教育の場からの体罰の一掃を呼びかけるとともに、体罰問題を利用した教育への政治介入に断固反対します

2013年2月8日

大阪教育文化センター

 大阪市立桜宮高校で、体罰を苦にした生徒が自殺するといういたましい事件が起こりました。私たちは、あらためて亡くなられた男子生徒の冥福を祈るとともに、遺族の皆様に心からお悔やみを申し上げるものです。

あらゆる教育の場からの体罰の一掃を、そのための徹底した議論を

 体罰は、暴力であり重大な人権侵害です。体罰は、教育とはまったく無縁であり、どのような理由をつけても許されるものではありません。体罰は、日常の教育活動や部活動を問わず、すべての教育の場から一掃されるべきものです。

 そのためには、まず、直接の当事者である教職員の間で、体罰を教育現場から一掃するための徹底し た真剣な討論が求められます。それは、学校の教育活動を教育の条理にもとづいて、子どもの人権尊重を第一義として、子どもの成長発達のみを目的としたもの へとつくりかえるいとなみでもあります。一つひとつの学校からの徹底した討論をすすめ、これまでも学級や学年や学校でおこなわれてきている、子どもたちへ の「体罰一掃宣言」など、教職員の決意を示すとりくみをすすめましょう。また、教職員の間での討論をすすめる過程で、子どもの意見を聞き、父母のみなさん の意見もよく聞いて、とりくみをすすめましょう。そのとりくみは、必ず、子どもの成長を中心にすえ、父母と教職員が力をあわせた教育活動の前進につながり ます。そうした父母と教職員の共同のとりくみで、子どもたちの人間としての成長をはぐくむ学校づくりをすすめましょう。

同時に、体罰をなくすための府民的討論を呼びかけます。

 「なぜ、こうした事態がおこったのか」 「教育の場やスポーツ界で体罰や暴力がなくならないのは、どうしてなのか」率直に意見を出し合って、子どもたちのすこやかな成長をはぐくむ教育をどのよう にしてつくりあげればよいか、そのために父母・府民としてできることは何か、などについての話し合いを地域・草の根からすすめましょう。その府民的討論 は、体罰一掃のための太い流れをつくりだします。同時に、それは、体罰問題だけにとどまらず、大阪の子どもと教育をどうするかという話し合いに発展するに 違いありません。そうした話し合いをとおしてつくられた合意をもとに、学校や教育委員会に要求すべきことは、しっかりと要求することが重要です。そのこと が、父母・地域住民の声に耳を傾ける学校や教育行政へと改革するとりくみとなります。府民的対話と合意づくりで体罰一掃と大阪の教育の前進をめざしましょう。

体罰問題を利用した教育への政治介入に断固反対します

 同時に、体罰問題を教育への政治介入に利用しようとする動きが強められています。橋下市長は、こ の問題が起こった時、「行政の大失態。ぼくが陣頭指揮をとる」と発言しましたが、これ自体、大問題です。これは、市長が教育現場に介入することを宣言した ということです。一般行政をつかさどる首長部局が、教育行政を意のままに動かすこと、また、教育行政を飛び越えて学校と教育に介入することは、絶対におこ なってはなりません。

 これは、教育への政治介入そのものです。政治は教育に介入してはならないというのは、戦後教育の 出発点にあたっての大原則であり、ここを踏み外してはなりません。事実、それ以後の橋下市長の一連の言動、行動をみると、教育予算まで「人質」にして桜宮 高校体育科の入試中止に圧力をかけるなど、許しがたいものとなっています。この体育科入試中止によって、何の罪もない受験生を不安に駆りたて、その進路を 奪ったことはきわめて重大です。

 こうしたやり方は、体罰と同様に、相手を力でねじ伏せようとするものであり、教育と教育行政のあ り方をゆがめるだけではなく、体罰問題の解決にも障害を持ち込むものといわなければなりません。しかも、教職員や生徒、保護者が全体として体罰を容認して いたかのように描き出しておこなうというやり方は、事実をゆがめ、責任を生徒や保護者に転嫁するものであり、子どもや保護者の心をはかりしれなく傷つけ る、許しがたいものです。

 さらに重大なことは、この間の橋下市長の発言を注意深く読むと、橋下市長自身が一切の体罰の否定 という立場に立っていないということです。彼は、「スポーツの指導の場において手をあげることは一切禁止」とは述べていますが、一方で「学校教育の場面 で、先生がギリギリの状況で手をあげる場面はある」と述べています。この立場では、体罰一掃というとりくみはできようはずがありません。さらに、橋下・維 新の会が2012年の府議会に提出していた「教育基本条例案」には、明 確に「教員は…有形力を行使」できると述べられています。これは体罰容認の立場にほかならず、橋下・維新の会は、このことに対する徹底した反省こそ求めら れるものです。ところが、それは一切不問にしたうえで、学校教育への介入をすすめるなど、まさに言語道断といわなければなりません。

 体罰は、教育の問題としてきちんと克服、解決すべき課題であり、こうした政治利用は、断じて許されません。

 政治介入の動きの背景には、橋下・維新の会が公約である「維新八策」で、教育委員会制度の廃止を掲げていることがありますが、今回の事態は、教育委員会制度の廃止がどれほど危険なものであるかを端的に示したものといえます。

 教育への政治介入を許さず、教職員、父母・府民共同のとりくみをすすめ、体罰一掃にむけて真摯な話し合いを積み重ね、子どもたちのすこやかな成長を保障する学校と教育をつくりあげようではありませんか。心から呼びかけます。